こくごな生活

国語や法律のソフトな考察を中心とした日常雑記録

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「ら抜き言葉」の区別が分からない?その正しさの検証を含め徹底解説しましょう!

こんにちは。

 

夏休みに入り、そろそろ高校受験の作文添削の仕事が多くなってきました。

 

僕は様々な都道府県で開催されている模擬試験の添削をしているのですが、今回担当した模擬試験は結構採点基準が厳しいです。

 

とくに印象的な採点項目が

ら抜き言葉は必ず減点

ということ。

 

たしかにら抜き言葉は文法上誤りですが、使用例が多くなりかなり市民権を得ている言葉になっています。少々古い話ですが2016年当時の毎日新聞でも、ら抜き言葉を使う人間は多数派になりつつあることを示しています。

そんな傾向を踏まえて、次第に言論業界などの言葉を扱う分野でも「ら抜き言葉」に寛容になりつつあります。

mainichi.jp

 

 しかし、正式な文法上、やはり「ら抜き言葉」は誤りです。文化庁の国語審議会も以下のように述べていますからね(太文字は本記事による)。

国語審議会としては,本来の言い方や変化の事実を示し,共通語においては改まった場でのら抜き言葉」の使用は現時点では認知しかねるとすべきであろう

 このような公式見解が出ている以上、やはり国語教育者としては安易に「ら抜き言葉」を認めてはいけないのでしょう。おそらく上記の採点基準も上記の文化庁の意向を厳格にとらえて判断したものと思われます。

 

しかし、そもそもこれほど「ら抜き言葉」が浸透したのは、理由があります。

・ そもそも「ら抜き言葉」の区別がつきにくい

・ 「ら抜き言葉」にも一定の合理性がある

そこで、以下でこの2点を見ていくことにしましょう。

 

f:id:bigwestern:20181226111753j:plain

 

1 そもそも「ら抜き言葉」ってなに?

ら抜き言葉の公的な定義は不明ですが、最大公約数的にいえば、

可能の意味を表す助動詞「られる」を使う際、「ら」が抜け落ちること

と、いうこと( 文化庁もこれに近いことを言っています)。

 

⑴ 助動詞「れる」「られる」のおさらい

ここで国語の文法をおさらいしておきましょう。

助動詞「れる」「れらる」は以下の意味があります。

・受け身 (例:この手紙は僕の万年筆で書かたものだ。)

・尊敬  (例:先生が珍しく声を荒げられた。)

・自発  (例:このアルバムを見ると、高校時代を思い出される。)

・可能  (例:このきのこは食べられる。)

ら抜き言葉」は最後の「可能」の意味のときに問題になるということをまず押さえておきます。

 

⑵ 助動詞「れる」のときはそもそも「ら抜き言葉」は問題にならない

当たり前ですが、文法上「れる」を使うときは、そもそも「ら」を使わないので、「ら抜き言葉」は問題になりません。

 

たとえば、「今日は学校に行かれる。」という場合、「行かられる」なんて言いませんから、「ら抜き言葉」のケースには当たらないんですね。

 

⑶ 「れる」と「れらる」の区別

つまり「ら抜き言葉」の問題にあるのは「られる」が使われる時だけです。

となると「れる」が使われる時との区別が問題になりますね。

 

これについては諸説あるようですが、ザックリいうと五段活用動詞(「ない」をつけると語尾がア音になる動詞:「行+ない」など)のときには「れる」を使いそれ以外は「られる」を使うという理解で十分でしょう。

 以下の参考文献には、より詳しい区別が説明されていますが、やや複雑な上に定説というわけでもないので、そこまでこだわらなくてもいいと思います。

 

⑷ なぜ「れる」と「られる」を使い分けるのか?

同じ意味の助動詞なのに、なぜ「れる」と「られる」の二種類があるのでしょうか。

これについては、鳥光宏先生の本で興味深い推論をしています。

「古文」で身につく、ほんものの日本語 (PHP新書)

「古文」で身につく、ほんものの日本語 (PHP新書)

 

 この本によれば、五段活用の動詞に「られる」を使ってしまうと、母音の「a」が続いてしまうが、日本人は「a」の音が続くとしんどいと感じる傾向があるので、「れる」を使うようになった、ということだそうです。

 

例えば、五段活用の「行く」に「られる」を使ってしまうと

行かられる(ikreru)

と「a」の音が続いてしまうから、「ら」を使わなかったのだ、ということですね。

 

僕もこれは一理あると思います。

ただ、鳥光先生は「a」の音に限定していますが、僕はそもそも日本語は同じ母音を続けると端折る傾向にあると考えています

 

例えば、撥音便を例にすると

「切る」という動詞に助詞の「て」をつけると、「切りて」になるはずですが、通常では撥音便変化して「切って」になります。これは「kte」と同じ母音が続くことを日本人が嫌っているからだと推測できます。

 

もう一つ例を挙げましょう。皆さんこの漢字を何て読みますか?

 

 

答えは「こおり」です。

 

「馬鹿にしてんのか」と思われるかもしれませんが、本当に皆さん「こおり」と読んでますか?

大半の人は「こーり」と読んだはずです。つまり「koori」と同じ母音を二回発音することを端折っているはず。

こう考えると、日本人が同じ母音を続けることを嫌う一つの証拠になるのではないでしょうか。

 

⑸ 「ら抜き言葉」と可能動詞の関係

以上のことから、五段活用以外の動詞のときには「られる」を使うから、「ら」を抜いてはダメだよ、というのが「ら抜き言葉」問題の答えとなります。

 

しかしそれだけで解決しないのがこの問題のややこしいところ。

日本語には可能動詞という概念があって、これが「ら抜き言葉」と混同しやすいんですね。

 

可能動詞というのは、そもそも可能を表す「れる」や「られる」を端折ってしまった表現のことです。

 

例えば、先に出てきた「行く」を例にしてみましょう。

可能を表す場合、助動詞の「れる」をつけて「行かれる」というのが正しいのですが、現在では「れる」の助動詞を端折って

「行ける」

と表記するのが一般ですね。これが可能動詞といわれるものです。

 

可能動詞は古くは室町時代からあったという説もあるくらいですので、間違った用法とはいえません。しかしこれがあることで、「ら抜き言葉」と非常に混同されやすいんです。

 

例えば「行ける」がいいなら、「見れる」もいいじゃないか、と勘ちがいするんですね。でも厳密にはこれは間違い。

・「行ける」は「れる」「られる」を使わない可能動詞という確立されたジャンル

(そもそも可能の助動詞を使っていない)

・「見れる」は「られる」の「ら」を端折ったもの

(可能の助動詞を使っていることが前提)

という違いがあるんですね。

 

このように、可能動詞につられて「ら抜き言葉」をスルーしてしまうことがあり得ます。特に「見る」のように語尾がラ行で終わっているものは勘違いしやすいので、本当に「ら」を使わなくていいのか確認するようにしましょう。

 

ちょっと説明がごちゃついてきたので、ここで表にしておきます。

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2 「ら抜き言葉」の合理性

このように見ていくと、「ら抜き言葉」に対処するのは結構ややこしいことが分かります。しかも可能動詞みたいな省略を認めておいて「ら抜き言葉」を認めないなんておかしいんじゃないか、という気にもなってきますね。

 

しかも「ら抜き言葉」には一定の合理性があります。

よく言われることですが、「ら抜き言葉」をつかうと助動詞の意味が明確になります。先ほども述べた通り「れる」「られる」は沢山の意味があるので、可能を表す時だけ「ら抜き言葉」を認めれば、他の意味と区別しやすいというわけですね。

 

例えば「食べれる」という言葉を認めれば、受け身や尊敬の意味と混同しなくて済みます。誤用であるにもかかわらず、この表現が使われているのは、そんな合理性があるからなのかもしれません。

 

その証拠に、「考えれる」という「ら抜き言葉」はあまり浸透していません。

これは、「考える」という動詞が受け身や尊敬で使われることが少ないので、可能を表すときと区別する必要がないからと考えることができます。

 

このように考えると、「ら抜き言葉」は可能の意味を表す言葉として、可能動詞と同様にこれから定着していくことがおおいに考えられますね。

 

3 さいごに

以上、「ら抜き言葉」の意義とその役割をみていきました。

僕としては、この表現は誤用ではあるけれど、次第に定着していく運命にあるのかなと思っています。やはり言葉は使い勝手がいいものに流れていきますからね。

 

とはいえ「ら抜き言葉」は、まだまだ公式の場で嫌われる表現であることは間違いありません。言葉の移り変わりを容認するとしても、言葉がどう変遷しているのかを押さえておかないと、いざというときにフォーマルな表現が使えなくなってしまいます。

 

その意味で、「ら抜き言葉」に気をつけるというのは国語教育において、決して無駄なことではないと思います。

 

それでは、また。

 

 

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