虚無感に包まれた自分を慰撫してくれる隠れた名作 ~玉置浩二「ニセモノ」~
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こんにちは。
今回は玉置浩二(敬称略、以下同じ)のマイナーな作品を紹介します。
ニセモノ
2000年に発売されたアルバムです。
このアルバムの最後を飾るバラードが、このニセモノという曲。
コアな玉置ファンでないと意識しないような地味な曲です。おそらくこんな記事を書いても世間的な存在価値はゼロに等しいでしょう。
しかしこの際、そんな価値などどうでもいいです。
中途半端なSEO効果など度外視して、この曲の存在をアピールしておきたい。そう思う「いとおしさ」がこの曲にはあるんです。今回は僕がそう思う理由を交えてこの作品について書いてみたいと思います。
この曲は、玉置が3度目の結婚相手である安藤さと子と結婚したばかりのころの作品です。再婚後に軽井沢に移住して、落ち着いたしあわせを手に入れたと思われた時期の曲なんですね。
確かに当時の彼を見ていると、ニコニコ微笑みを絶やさず軽井沢での田舎暮らしを満喫していて一見幸せそうです。
しかし・・当時の玉置の微笑みは、なんというか、どことなくもの哀しい。
真に満足して笑っているというより、「しあわせってこんなもんなんだ。受け入れて、感謝して、笑っていよう」と、言い聞かせているように思えます。
「足るを知」ろうと必死に自戒しているという感じ、とでも言いましょうか。
2000年当時、玉置は結婚を2度失敗しています。
上記の彼の表情は、愛をまっとうできない自分への「諦め」ともとれなくはないですが、僕はもう少し普遍的なメッセージをこの曲から感じますね。
玉置と同列に考えるのもおこがましいですが、僕も最近になって、何となくこの感覚は分かります。10代のときみたいに「純粋に満足する」ことってだんだん減っていっているような気がします。己の小ささだったりしあわせの脆さだったりを感じる経験が多くなると、すべてが「冷めて」しまうような感情に襲われる時があるわけです。
僕はそんな虚無感をやさしく歌い上げたのが、このニセモノだと解釈しています。
出だしの歌詞を見てみましょう。
見て 手に取って 自分で確かめて
そして 見破ったなら
その胸が痛むでしょう
目的語がありません。でもそれがいい。
よく確かめると気づいてしまう。それがたまらなくつらい。
そんなものが誰にだってあるはず。それ以上の説明は無粋というものです。
人はこれをニセモノと呼ぶでしょう。
そんなものに捉われていないで「ホンモノ」を手に入れろ、というのが、おそらく常人の考えではないでしょうか。
しかしこの曲では、そうは考えなかった。
それなら 黙って 騙されていようよ
考えようによっては、酷くネガティブな考えです。
現状維持のまま思考停止しているのがいいとはナニゴトだ、という批判の一つも投げかけたくなる人もいるでしょう。
しかし、あえて今回はその考えに反論してみましょう。
「本物のしあわせ」を追いかけるとどうなるのか?
人によってはそれではうまくいかないこともあるのではないか、というのがこの歌のメッセージであると推測しています。
本物であることを求め過ぎると、確かめたくなる。詮索したくなる。
そして少しでも「違う」と自分、あるいは相手を傷つける。
玉置はそんな経験をずっとしてきてウンザリしていたのではないか、と思います。
ニセモノを作った軽井沢時代の玉置は、「だんだん自分の幅に気づいてきた」と述べています。
つまり人間には「幅」があり、対象と完全に一致することはないのだから、真に満たされることなどない。「ちゃんとこれくらいで気が済む」というラインをいつも持っておかなくては、いつまでも満足しないままで終わってしまう。
それでは自分も相手も不幸になります。それだけは避けたいと思ってあえて「本物」を追いかけるのを止めたというわけです。
「気が済む」ラインは自分で作ったフィクション。
それならば、しあわせだって自分で作り上げていくフィクションであり、ニセモノなわけです。疑おうと思えば疑える、壊そうと思えば簡単に壊れる。「それでも笑ってこのままでいよう、それが案外しあわせなのかもしれないよ」というのが玉置のメッセージなのでは、と僕は解釈しています。
この解釈は、考えようによっては消極的で悲しいです。
しかし「これこそが本物だ!」と息巻いてばかりいると、無駄な消耗をしてしまうことがあるも確か。玉置はあえてそんな争いから一線を引いて、静かな心を手に入れたかったのかもしれません。
僕はこのニセモノをきくと、そんな肩の力を抜けたような静かな心に触れたような気持ちになります。だから一見消極的に見えるこの歌詞も、どことなく「いとおしい」のです。
何かとイライラする毎日ですが、こんな気持ちになれるこの作品を僕は大切にしていきたいですね。
それでは、また。