「これでよろしかったでしょうか?」は本当に誤りなの? バイト敬語を国語講師が検証する
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こんにちは。
今回は、いわゆるバイト敬語について思ったことを書きます。
バイト敬語は、社会人として成熟していない言動の代表例として、直すように注意されることが多いですね。もちろん僕もいい歳なので、使わないように心掛けています。
しかしなぜバイト敬語がいけないのかをしっかりと考えたことがありますか?
今回はその理由について考えていきたいと思います。
1 文法的に間違いがある場合
例えば、「ご予約されていますか?」のように文法的に間違いがある場合には、いけない理由がはっきりしてますので分かりやすいです。
「ご予約する」は謙譲語であるのに対して、助動詞の「れ」は尊敬語ですので、混ぜて使うのはおかしい、というのがいけない点ですね。
ちなみに、助動詞「る」「らる」については以前に扱った記事があるので、そちらも参考にしてみてください。
2 「これでよろしかったでしょうか?」の表現は文法的に間違い?
では、タイトルにある「これでよろしかったでしょうか?」は、何がいけないんでしょうか?
よく巷で説明されている理由として、現時点のことについて話題にしているのに過去形を使うのはおかしい、というものです。ビジネスマナー系の本を読むと大抵このように書いてあります。
しかしちょっと待ってください。
この「た」を過去形だと誰が決めたんですか?
「た」という言葉は、過去を表すほかに様々な意味があります。
もう少し「これでよろしかったでしょうか?」で使われている「た」の意味を探ってみてから、この言葉の正誤を裁いても良さそうなもんです。
ここは国語を扱うブログらしく、丁寧に「た」の意味を検討してみましょう。
⑴ 助動詞「た」の意味
実は、助動詞「た」は、たくさんの言葉を祖先に持っており、その分、多様な意味を背負わされた便利屋的な言葉なんです。
「ら抜き言葉」を扱った記事の中で紹介した鳥光宏先生の本にも紹介されていますが、「た」という言葉は以下のような助動詞の意味をひとえに引き受けているのです。
過去の助動詞「き」
過去・詠嘆の助動詞「けり」
完了の助動詞「つ」「ぬ」
完了・存続の助動詞「たり」
古文の授業で勉強した記憶がうっすら残ってませんか?
このようなたくさんの言葉を祖先に持つので、「た」には様々なニュアンスがあります。
少々例を出してみましょう。
A 昨日、雨が降った
B やっと花が咲いた
C 探していたものが、やっとあった
Aは「昨日」のことを表す過去の言葉ですが、それ以外は違います。
Bは現に咲いている状態を指すので「完了」(ないし「存続」)です。
ではCはどうでしょう。
鳥光先生は古文の助動詞「けり」の「気づき」の意味ではないかと指摘しています。
「さりけり」(「そうだった」の意)に近いということですね。
僕もおそらくそんなところだと思います。これについて厳密な正解があるわけではないですが、どちらにしても過去の意味ではないです。見つけたのは「今」ですからね。
⑵ 「よろしかったでしょうか」の「た」の意味をもう少し探ってみる
たとえば、今見た映画について「おもしろかった!」という場合、過去形でいうのはおかしい、とは言いませんよね。この場合の「た」は映画鑑賞を完了してその結果に対しての「気づき」を述べたものであることを表しています(その意味では、上記の例でいうとCに近いです)。
僕は、「よろしかったでしょうか?」の「た」もこれに近いと思っています。
以下の例を見てみましょう。
客「A社製の今年度の新作型PCをください。」
店員(商品を持ってきて)「これでよろしかったでしょうか?」
店員が提示したPCを見せて、客に対して「その結果」が「正しかった」という気づきを促しています。
なぜこんなまどろっこしいことをするんでしょうか?
実はこの店員、自分の仕事の偶然性・不確実性を装うことで謙譲の意を表したいのではないか、と僕は考えています。
つまり
(自分が持ってくるPCがお目当てのものかどうかなんて、アテにならないよ)
(とりあえずお客のいう通りに探したら、結果としてこのPCになっちゃった)
(でも、これで「よかった」んだよね)
というニュアンスを出したいから、「た」という言葉を使っているのでしょう。
このようにいうことで、「このPCを選んだのは自分の判断ではない。」といった自分の存在を消す効果が一定限度期待できます。みようによっては、これを謙譲といえなくもないです。
3 「このカレーライスは600円になります」も実は同じ発想か?
上記のように考えると、もう一つのバイト敬語「~になります」も、一応の説明がつきます。
例えば「このカレーライスは600円になります」をみてみましょう。
これを「600円です」と断定してしまうと、自分の意志で判断しているように思われてしまいます。
しかし店員としてはできるだけ自分の存在を消したい。
そこで、「このカレー(を頼むと、お客さんが払う代金)は600円になりますよ。」と、あたかも金額が自然発生したかのように「傍観者の報告」をするのです。
もちろんこの表現が謙譲として適切かという問題は残ります。
しかし、「よろしかったでしょうか」の例と同じように、自分の意志や判断と受け止められることを和らげる働きがあるとすれば、バイト店員からすると魅力的な表現のはずです。この表現が廃れずに残っているのは、そんな効能があるからかもしれません。
4 さいごに
以上、「これでよろしかったでしょうか?」を中心に、バイト敬語の国語的な検討をしてみました。
どうやらこれらの言葉には、自分の存在を消して謙譲の意味を表すという共通項があるようですね。
しかしこの傾向がいき過ぎると、単なる責任逃れに受け取られてしまいます。
下手をすると、その店員が自分で判断せずに現状を傍観しているような態度に見えてしまいますからね。
このようなデメリットを持つ表現を、前記したようなまわりくどい説明で弁護する必要もないのかもしれません。
その意味では、「これでよろしかったでしょうか?」に代表されるバイト敬語は、(正当化のために屁理屈をこねられるが)やはりビジネスの世界では不正解なのでしょう。
それでは、また。