死刑廃止論者が大嫌いだった自分が 森達也の本に共感し始めている件
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こんにちは。
以前の記事でちょっとだけ触れたことがありますが、僕は司法試験受験生でした。
こういうと人権派弁護士を目指すどちらかというとヒダリよりの思想を持った学生だったというイメージがあるかもしれませんが、事実は逆。少なくとも刑事事件については、今でいうネトウヨに近い考えの人間だったと思います。
今でこそ、法学部を卒業して、ある程度リベラルな考えも理解できるようにはなりましたが、大学入学当時は死刑廃止論者や犯人の権利を主張する学者や弁護士の書いたものを読むと、胸糞が悪くなったものです。
死刑存廃論は非常にナイーブな問題。
人の生命にかかわる問題ですので、反対論者に対して互いにムカつく度合いが著しい。僕も両者の意見をできるだけ理解しようと試みた時期がありましたが、両者の立場を理解しようと思えば思うほど、分かり合えないことがよくわかるんです。
そんな自分は現在、死刑については「慎重な存続派」くらいなスタンスです。
少なくとも、以前のように被害者の立場に立って(正確にいうと「立ったつもり」になって)声高に死刑及び重罰化を叫ぶことに全面的な正義は感じません。これを考えが成熟したとみるべきか、サヨクに「ひよった」とみるべきか、自分でもわかりませんが。
さて、そんな自分が、以前だったらムカついて読めなかったであろう本が、これ。
「自分の子供が殺されても同じことが言えるのか」と叫ぶ人に訊きたい
「自分の子どもが殺されても同じことが言えるのか」と叫ぶ人に訊きたい (講談社文庫)
- 作者: 森達也
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2018/11/15
- メディア: 文庫
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森達也氏は、テレビのディレクターやら、作家やら、大学の特任教授やら幅広く活動している文化人。代表作にオウム事件を扱ったドキュメンタリー映画「A」があります。
森達也氏は刑罰論に関しては死刑廃止論者であり、刑罰発動に慎重なスタンスを取っています。そのためSNSでは、「ブサヨ」と揶揄されることも。
そんな彼が、刑罰発動慎重派が批判される根拠となる「被害者の気持ち」について反論しているのが上記の本というわけです。
彼はこの本の中で
・刑罰論と被害者の感情を対立軸で捉えるべきではないこと
・「第三者」である我々は被害者に感情移入するだけで事件を知った気になってはいけないということ
といった趣旨の主張を繰り広げています。
もちろんこれを読んだだけで、死刑や刑罰に関する考えがガラリと変わるとは思えません。僕も、森達也氏の考え自体に賛成まではしてませんし。
しかし、そんな僕でも一定の共感を感じるようなパワーがこの本にはあります。
事実の切り取り方は違えど、この人なりに事件を調査して悩んでいることが伝わるからです。
僕が、凡庸なリベラル派の法律学者や弁護士の論調が嫌いなのは、既存の知識の披露で思考が停止しているからなのです。彼らの思考を乱暴にまとめると、
↓
したがって刑事裁判では被告人の権利を守ることが大事
重罰化を叫ぶ「感情論者」は、憲法・法律をもっと勉強しなさい
↓
被害者の感情は、基本的に刑事裁判の思考管轄外。他の分野で検討すべき問題。
こんな感じに見えてしまうんです。
もちろん厳密には彼らの主張はこんな単純ではありません。しかし、これまでのリベラル派の論調は相手方の無知を前提にしている点で権威主義的で、紋切り型にすぎた感があります。そんな論調への反発により、世論をかえって重罰化にし向けているような気がするんですね。
そんな凡庸な論に比べると、森達也氏の本は読み応えがあります。
なまじ法律専門家ではないので、専門家にありがちな知識の披露で終わっていないのがいい。こういう内容の本には意見は違えど敬意を表したいと思います。少なくともテレビの犯罪報道を見ただけで「こんな犯人、殺しちまえばいいのに」といっているだけの論よりは知的価値が高いです。
上述のリベラル派とは逆に、重罰化論者は、「自分が被害者の味方である。誰も傷つけていない。」という「安心感」からか、第三者がアカの他人を裁く難しさについて思考停止してしまう傾向にあります。そんな事態に一石を投じる本としては、今回の本は意味のあるものだと思います。
昔の自分が、こんな本を紹介している記事を書いているのを見たら、そう思うのだろうか。・・複雑な心境です。
それでは、また。