こくごな生活

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国語の長文読解問題・作文演習は不要なのか?~水島醉氏の3つのルールと方法に思う~

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こんにちは。

 

今回は長文読解問題演習のあり方についてのおはなしです。

 

以前僕は、読書をしたからといって必ずしも読解力がつくわけではない、むしろ長文読解問題の演習が有益という持論を展開しました。

 

bigwestern.hatenablog.com

 

 

この件に関して、先日ある本を見つけたので読んでみました。 

 帯にも書いてある通り、筆者の水島氏によると、国語の力は普段から読書をし、正しい言葉遣いを心掛ける等、日ごろの生活習慣によって培われるものとされています。

逆に、長文読解問題や作文は百害あって一利なしとまで言いはなっていますね

 

この帯の表現や、目次の表題を眺めてみると、読みようによってはこのブログに喧嘩を売られているような気もします(笑)。

しかし水島氏は僕よりもはるかに国語教育の経験が長い大先輩です。おそらく僕のブログでいっている内容くらいは踏まえての主張なんだと思います。実際に、この本を丁寧に読んでみると、(多少の意見の違いはあれど)そこまで僕の考えていることと違ってはいませんでした。

 

では、長文読解問題で読解力を鍛えるべきと主張する僕と、水島氏の本の主張はどういう関係にあるのでしょうか。今回はそこのところを交通整理してみたいと思います。

 

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1 水島氏の提唱する3つのルールと3つの方法

水島氏は国語力を上げるために以下のようなルールと方法を提唱しています

【3つのルール】

① 読書をさせる

② 正しい言葉を使わせる

③ 友達と外で遊ぶ

【3つの方法】

A 子供が読書好きになるような環境を整える

B 読書感想文ではなく文章要約をする

C 漢字と文の構成の理解

 

そしてここで書かれていることを実践するためには

ア テレビ、ゲーム、インターネットの禁止(最悪でも30分~1時間程度に抑える)

イ 長文読解問題を解かせない

ウ 作文、読書感想文を書かせない

ことを守る必要があるそうです。

 

2 この本と僕のブログの違い

上記のような教育法が国語教育の理想形だとすると、インターネットで長文読解の解説をしたり作文の書き方解説をしている僕など、児童の国語学習を貶める非国民ということになりそうです。

 

しかし、そもそも僕のブログと水島氏の本は目的が違います。

僕は読解力を上げて国語の問題で点数を上げる方法論を考えています。一方、水島氏は国語の素養を高めるための教育論を提唱しているんです。言ってみればこのブログは受験論で、水島氏の本は教育論国語の世界の切り取り方が違います

 

僕は、受験での成功体験や長文読解問題の演習を媒介にして国語が好きになった人間ですから、どちらかというと受験上の技術論風のドライな書き方になるんですね。

一方、水島氏は、国語の世界を通して子供の健全な人格形成を図ることを目的としています。人格形成ともなれば、低年齢のうちから子供の生活習慣を矯正しなくてはならないし、結果的に精神論じみた話にもなります。実際、今回の本は主に小学生くらいの低年齢の生徒を対象にして論じていますので、受験生を念頭に論じている僕のブログと想定する場面が違う。

 

僕のブログの内容と今回の本の内容が一見正反対に見えるのは、上記のような違いがあることが一因であることを踏まえる必要があります。

 

2 本の表現には閉口するところもあるが・・

正直なところ、僕個人、水島氏の主張はやや極端というか、古典的・保守的にすぎないかと思うところもあります。

・言葉の変化は千年単位で変化したもの以外認めない(それ以外の言葉の変化は、言葉を誤用を正当化する「いいわけ」にすぎない)

・読書さえできればほかの勉強は一切いらない(進学塾など不要)

・学校の先生は経験豊富で優秀な教育者だけど塾の講師はダメ

などなど、人によっては極端でアクが強いと感じる言い方がところどころあります。まあ、これくらいの強固なけん引力がある主張がないと、自信をもって子供を矯正することなんてできないということなのかもしれませんが・・。

 

もっとも、こういうことを強調すると、単なる批判記事になってしまいますので、この辺にしておきます。もうすこし丁寧にこのブログとの共通点・相違点について探ってみましょう。

 

3 読書は国語力を、長文読解問題は読解力を鍛える

僕は先ほどから国語力と読解力を使い分けていることにお気づきでしょうか?これは、2つの意味が微妙に異なると解釈しているからです。

つまり

国語力

国語の世界に関する素養、勉強のための体力及び集中力など、国語の基本となる底力のこと

読解力

文章を的確に読み取り最適な解釈を導く力のこと

ということなんですね。

 

確かに僕も、国語力をつけるには、読書をする習慣をつけるのがベストだと思っています。しかし、読解力を付けようとするなら、正解の指針がある長文読解問題が優れていると思うんです。「国語の世界に正解がある」という考え自体、毛嫌いする人もいるかもしれませんが、読み手の解釈が適切かチェックする作業は、独りよがりな解釈を防止するためにもどうしても必要です。

 

これに対し、水島氏は読解力を国語力に含めて解釈していますので、読書さえできれば長文問題だってできる、長文問題は国語力をチェックするための手段にすぎないという考えです。この考えによると、長文読解問題の演習は、国語力を点数化するテクニックを鍛えるためだけの受験上の必要悪ということなのかもしれません。

 

このように僕も水島氏も、国語の基礎となる力を育てるには読書の習慣をつけることが最適という意味では、主張の趣旨が一致しているのです

ただ僕の場合、(狭義の)読解力を鍛えるためには、読書とは別に訓練する必要性があると感じています。だから長文問題集を国語力チェックの単なる手段ととらえるのではなく、読解力を鍛えるツールとして肯定的に解釈しているわけです。

 

4 要は長文問題演習の「教え方」だと思う

もちろん長文読解問題演習も、本文の読みをいい加減にしただけで適当な点数稼ぎのゲームに終始してしまうと水島氏の言うような弊害が起こると思います。それこそ彼が提唱するような本の読み聞かせや文章の要約をやった方が力がつくかもしれません。

 

しかし僕が今までお世話になった先生は、長文問題をそんなふうには解説しませんでしたし、僕もそうならないように気を付けています。

つまり、長文読解問題の解説の際は、必ず本文の内容を理解させることを前提にしているのです。そのためには本文の読み聞かせをしたり、段落ごとの整理の仕方などを解説していきます。段落ごとの内容整理というのは水島氏のいう文章要約に相当します。

 

もちろん上記の本にあるように、作品の「切り抜き」ごときでは作者の主張や論旨は十分に理解できないという意見ももっともですが、それは前述の国語力を求めているからです。しかし、文章を正確に読むという読解力に特化した訓練をするなら、作品の部分的な引用でも十分ではないでしょうか。

 

また、そのような長文の「切り抜き」でも筆者の視点や思想などのさわり部分を味わうことは十分可能です。もしさわり部分だけで物足りないと思ったら、その作品を改めて読めばいい。実際僕は、本文の作品を後で読みたいと思えるような授業ができるのが理想だと思っています。

「この問題演習で文章へのアプローチの仕方が分かった。ここに書かれていることをもう少し知りたい」と思えれば、読書への誘導になりますよね。実際、僕はこのルートで国語が好きになったんです。

 

その意味で、僕の水島氏では長文読解問題のアプローチの仕方が違うだけで、最終的に求めているものは同じなんだと思います。

 

5 作文なんて不要?

水島氏は、高校生くらいまでは作文なんて書かせる必要はない、と主張します。

理由は、自分の思想を表現する作品を完成させることは大人でも難しく、国語の基礎力が備わっていない子供のうちからやらせるのは無理強いだから、というものです。彼によれば、文章を書く訓練は、文章要約や文の修飾関係の整理をする練習などで足りる、ということらしいですね。

 

う~ん、読書は大切だから強制してでもやらせるべきだが、作文は難しいから無理強いすべきではないという区別は、僕にはわかりづらいですが・・。

しかし共感できる点があります。それは「すくなくとも中学生以下までは立派な自分の主張を書ける必要がない」ということです。

 

「自分の主張を書く」というのはそれこそ国語力を総動員する作業で、立派な内容を書くのは大人だって(僕だって)難しいです。ブログをやっている皆さんだって「みんなが感心するような立派なことを書きなさい」といわれたら、記事を書く手が止まりますよね?

 

 実はこの内容は、東京都立高校の作文問題の話と重なるんです。

僕は、以前に作文を書くときは自分の主張部分にこだわりすぎるな、といっています。

 

bigwestern.hatenablog.com

 

つまり抽象的な主張部分にこだわりすぎると、難しく考えすぎてかえって作文の内容が脱線してしまう、大事なのは筆者の主張を的確にとらえた体験をしめすことだ、ということです。

 

筆者の主張を的確にとらえるためには、本文の内容を整理・要約して適切なポイントおさえる必要があります。そのポイントをおさえた体験さえかければ、なにも独自の立派な主張なんていらないんです。

 

このように僕も「独自の立派な主張ができるための訓練に無駄なエネルギーを使うべきではない」という意味の主張はしています。したがって、作文を書くべきではないという主張も、こういう意味で解釈する限りでは、僕も共感できますね。

 

6 さいごに

国語の勉強は全体像が見えにくいために、勉強法について様々な表現があります。

なかには正反対のことを言っている教育者もいて、勉強する子供や親御さんが困惑するケースもありかもしれません。

 

僕がやっていた司法試験でもそうでしたよ。

「受験技術なんてくだらない、教科書をしっかり読んで本質的な理解ができるようになれば塾なんて不要だ」

「いや、抽象的な理解と理解を示す技術には違いがあるからやっぱり塾は必要だ」

みたいな論争があって、受験生としては「どっちが正しいんだ」と言いたくなります。

 

しかし、この手の論争にこだわりすぎるのは得策ではありません。

結局、両方とも目指すべき到達点は同じで、そのための道筋が違うだけです。

今回の話だって、国語の力が上がっている充実感を感じながら勉強する分には、その方法が長文読解問題でも構わないと思いますよ。

 

それでは、また。

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