こくごな生活

国語や法律のソフトな考察を中心とした日常雑記録

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「何で法律やっている人って犯人に甘いの?」と思ってしまう理由

こんにちは。

 

僕は法学部出身で法律系の仕事の経験も少しあるので、一般の人よりは法律家の考えに接する機会が多いです。

法律といえば、一般人にとって興味を持ちやすいのは刑事事件ですかね。ワイドショーとかでも犯罪報道は毎日のようにやってますから。

 

そんな報道の中で、よく識者の意見として法律家がコメントすることがありますが、それをみて今回のタイトルみたいに感じたことはないですか?

僕は昔、よ~く思っていましたよ。

 

しかし、現在ではなぜこのような感覚のズレが出てくるのか、何となくわかる気がします。今回はその辺をつらつら書いてみたいと思います。

 

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1 法律の知識を勉強しただけではこの差は理解できない

なぜあいつらは犯人に甘いのか?

法律の知識ばかり詰め込んで教養をひけらかすだけ。人の感情が分からなくなってしまっているのか?

ぼくが子供のころ、こんな風に感じていました。

 

法律を学ぶようになって、法律の専門書をかじるようになりましたが、しばらくは上記のような疑問は消えませんでした。人権の大切さやら刑事裁判の仕組みなど、公民の授業で習ったことをちょっと小難しくしただけで、正直、面白いと思いませんでしたね。

 

多分、法律の世界に不慣れな人が、法律の教科書的なものを読むと、大抵、僕のような感覚になるんじゃないかと思います。考えの感覚的なズレは抽象的な知識の量では埋まらないんですね

 

2 「分からない真実」と向き合う

では、一般人と刑事訴訟に携わる法律家との間の意識のずれとは何か? 

僕なりの答えを上げるとすれば、真実があらかじめ分かっていると思うか否かの差だと思います

 

一般人は、刑事事件というと刑事ドラマを連想するんじゃないでしょうか。

捜査員が一生懸命に真実を調べて、その真実が分かったら裁判所に持って行って「裁いてもらう」。刑事裁判というと、真実を量刑という形で評価する儀式のようにみえてしまうんですね。こう考えると、「量刑を出すだけなのに、何でこんなに裁判って時間がかかるんだ」と思ってしまいがちです。

 

おまけに刑事ドラマには、実際に犯人が行った「正解の映像」があります。あとはその正解に向かって関係者が足並みそろえて努力するだけ。そんな努力を邪魔する黙秘権などの被告人の権利なんて、はっきり言って「ウザい」です。

 

僕たちがテレビなどで犯罪報道を見ると、無意識的にこの「刑事ドラマ」風の捉え方をしてしまいます。犯罪報道は、捜査員から得た断片的な情報と、起訴状の事実をベースにして作ります。そしてそれを見て犯行の映像を想像して、それに対して感情移入してしまう。当然、被害者への同情と犯人に対する憎悪がむくむくと湧き出てきます。

 

その感情を「正義」として量刑に反映しようとするならば、今の刑事裁判なんて、イライラしてみていられません。すべてがなんとなく犯人よりに「ひよった」判決に思えてくるでしょう。

 

しかし、そういう感情をいったんクリアにして、もし自分が裁判官だったとしたら、と考えてみましょう。

見ず知らずの人が、泣きながら「こいつに家族を殺された」といって自分の前に駆け込んできたとする。捜査員が調べたとされる証拠も一応揃っている。

さあ、刑事ドラマを見たときのように、または犯罪報道を見たときのように、すっきりと量刑を決められるでしょうか?少なくとも僕には無理ですね。

 

なぜなら、感情移入すべき真実の映像がないからです

真実がない以上、両当事者が持ち寄った証拠と主張を調べて、真実を裁判のなかで再構築しなくてはならない。そこで生まれた「真実」と、犯罪報道で流れた「真実」は当然違います。仮に事実の概要は重なるとしても、受けるイメージは絶対に異なるはず。

 

つまり、一般人は犯罪報道から想像した事実(とされるもの)。一方、法律家は裁判の中で再構築された事実(とされるもの)を念頭に置いて量刑を出しているんです。これはむしろ異なるのが当たり前。

 

法律家と一般人の感覚のズレは、そんな事実の切り口の違いから生まれるんだと思っています。

 

3 切り口の違いを理解すると刑事訴訟制度もわかりやすい

上記のように、裁判所で真実を再構築しなくてはならないとすると、裁判所に持ち込む主張や証拠の吟味はすごく重要になります。目隠し状態の判断者が縋ることのできる唯一のものなんですから。

 

となると怪しい主張や証拠が裁判所に持ち込まれないようにするために、いろいろ規制が必要になってくる。それが刑事訴訟制度なんです。

捜査員に無理やり言わされた被告人の供述なんて信用できません。だから黙秘権という権利を与えて、自由な意思の下でなされた供述であるという担保が必要になる。

あまりにも古い事件についての証拠や証言は、裁判所で反対尋問などの吟味がやりづらくなる(証人が死亡している場合だってあります)。そんな危なっかしい状態で人を裁くのは憚られるから、時効というものがあるんですね。

 

無論、今の刑事訴訟に問題がないわけじゃありませんよ。

いくら目隠しの判断が難しいからといって、国民が真相解明を望んでいることをうやむやにしていいとは思いませんしね。

 

しかし、上記のような視点の違いを踏まえたうえで刑事訴訟の制度を見れば、一部の一般人がいっているほどデタラメな制度ではないと思いやすいのではないでしょうか。

 

4 日常生活の正義と刑事訴訟

法律家は、目隠し状態でアカの人を裁く危なっかしさを感覚的に知っています。

だから裁判のやり方は神経質なまでに厳密であり、どちらかというと刑罰発動には慎重になっていきます。これは「一般人の感覚や被害者の気持ちを考えていない」というのとちょっと違う(もちろん変な法律家もいるけど)。

 

これに対して、日常生活では、「正しい人の立場に立って悪い奴に怒る」のが正義であると考えるのが一般です。悪いことをやった奴の言いわけなんて聞くのは「正義」を骨抜きにする「甘え」だし、時間が経てば悪いことが許されるなんてとんでもないこと。

 

普通に暮らしている分には、僕もそんな正義感を持つのも必要だと思います。

しかし、上記のような真実の向き合い方の違いがある以上、日常生活の正義と刑事訴訟制度の価値観にズレが生じるのは、ある意味でやむを得ないことなのかもしれません。

 

もちろん、刑事司法が国民感情を無視していいことにはならないので、今後もいろいろ手直しが必要になるとは思います。しかし、一般人も義務教育で模擬法定を経験するなど、「分からない真実」に向き合う難しさを感覚的に知る機会があるといいと思いますね。

そうすれば、互いの感覚の違いが分かりやすくなって、もう少し刑事裁判について建設的な 議論ができる気がします。

 

なにやら長文になってしまいましたので、この辺で終わります。

それでは、また。

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