文化庁vs国語辞典 ~不適切な日本語の扱いで板挟みにあう作文採点者~
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こんにちは。
前回に引き続いて(※)中学生の作文を採点する者として、ちょっとした雑感を書きたいと思います。
※前回の記事
中学生の作文をみていると、ちょくちょく不適切な表現をみかけます。
これに対して作文採点者としては、教育上の観点から出来るだけ指摘してあげたいところですが、積極的に減点するのは難しいです(もちろん試験の種類にもよりますが)。
これは「中学生だから仕方がない」と甘やかしているのではなく、そもそも何をもって不適切というのかがあいまいだからです。いい加減な理由で減点するとクレームのもとになるし、第一生徒に間違った認識を植え付ける危険がありますので、そのへんはかなり慎重にならざるを得ない。
そんなわけで大抵の模試では、不適切な表現については甘めに採点しているのが現状です。理想論をいうと、前回の記事でも記したように「一見不適切な日本語と思われる表現についても全否定せずに、不適切である理由を理解した上で柔軟に使い分けること」が大切なんですが、採点者の立場ではそこまで伝えられないのがちょっと歯がゆいですね。
それでも、「やはり減点にすべきではないか」という表現はいくつかあります。
そんなとき作文採点者には、タイトルにあるようなジレンマを抱えます。今回はそんな場面のことを紹介しましょう。
1 作文で「にやける」の誤用を発見
ある作文で以下のような表現がありました。
「先生がにやけていたので、馬鹿にされたと感じて不愉快でした。」
(傍線は当ブログによる)
さて、「にやける」は「若気る」と書くように、本来は男性がなよなよしているさまを表わす言葉です。しかし上記の作文では「にやにや笑う」という意味で使っていますね。
このような用法は、文化庁でも「本来の使い方ではない」と公式に述べていますし、僕もこれが誤りであることを前提にした記事を書いたことがあります。
- あの文化庁が間違いといっている
- しかも文法的に見ても「にやにやする」という意味に解釈できないので、「全然+肯定表現」のように正当化する根拠がない
こう考えた僕は、「やはり減点すべきなのではないか」と悩んだわけです。
2 現代語の弁護士的存在「三省堂 国語辞典」
しかし、結論からいうと今回の作文にある表現は減点しませんでした。
根拠は三省堂の国語辞典で正式に紹介されているから。
にや・ける
① (略)
②〔「にや」を誤解して〕にやにやする。
「誤解」という表現を使っていますが、②の用法自体が誤りとはしていません。
しかも最新版では、以前に表記されていた俗語を表わすマークもない。
こんな反証を発見した以上、減点するのはためらわれます。
結局、コメントで注意書きをするだけに留めておきました。
それにしても、いくら新語に柔軟な姿勢を見せる三省堂の国語辞典であっても、「にやにやする」の意味を正式に採用しているとは思わなかった。せいぜい俗語扱いに留めていると思っていたので意外でしたね。
この点につき、三省堂国語辞典の編者である飯間浩明氏が記した本では、「これはもう一般化した用法と捉えて差し支えない」とまでいってます。
文法上の理由から「にやける」=「にやにやする」をずっと否定していた僕にとって、ちょっと衝撃的な内容でした。
遂に国語辞典の編者を動かすまでにこの意味が市民権を得たということでしょう。
3 国語辞典に載っていても適切な表現でないことは理解してほしい
そんなわけで、今回の「にやける」の用法については減点を免れたわけですが、この生徒には「にやにやする」が不適切であることは理解してほしいです。「にや・ける」という言葉の構造を理解するチャンスなんですから。
国語辞典に載っているから国語として必ずしも適切というわけではないです。
現代語として流通している以上、意味を紹介しなくては現代語を反映した字引にならないから、(本来不適切の用法でも)意図的に載せているものもあります(特に三省堂はその傾向が強い)。
もちろん新しい用法を柔軟に取り入れることは結構です(僕も三省堂の国語辞典を使ってますし)。しかし「国語辞典に載っているから大丈夫」と思考停止してしまうのも勿体ないです。それでは本来の使い方から現代の使い方に変遷していった言葉の歴史を捉えそこなってしまうからです。
4 さいごに
以上、文化庁の見解と国語辞典の表記に板挟みにあった作文採点者のことを紹介しました。
前回は、「新しい言葉の用法を無碍に否定するべきではない」と言いましたが、今回は「否定はしないけど本来の用法もしっかりするべき」という視点からのおはなしでしたたね。前者は採点者の心構え、後者は学習者の心構えです。
こんなふうに、お互いが謙虚になって言葉に向き合えれば理想ですね。
それでは、また。