「ググれカス」って簡単に言うな!~ググる力と国語力について~
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こんにちは。
今回は「ググれカス」ということばについて書きます。
一昔前に流行ったネットスラングですが、未だに根強く愛用者がいる言葉のようです。
情報取得が容易になった今日、ちょっと調べればわかることでも、いちいち他人をあてにするような者はうっとうしい。そういうものに自助努力を促す言葉としては真理を突いている言葉でしょう。もっとも僕は、こういう人を突き放すような表現をみだりに使うのは、あまり好きじゃありませんけどね。
さて、この「ググれカス」という言葉は、2000年代後半に流行った言葉ですが、この考えが今でもそのまま通用するか、という問題意識を持っている人が出てきています。
以下の記事などはその問題意識をよく表していますね。
この記事では、「ググれカス」という言葉が流行っていた時代に比べると、検索流入にフォーカスしたサイトが増加することで、本当に必要な情報が手に入りづらくなっていると指摘しています。つまり情弱な人間にググらせても、やはりカスなままであるということ。
確かに実際ググってみても、意味のない一般論やキーワードだけを散りばめただけの内容のない記事が1ページ目に乱立しているということは珍しくないですね。
そんな状況から検索者が本当に必要な情報を掘り起こすには、それなりの検索技術が必要です。ネットの使い方はもちろん、検索内容を適切に絞り込むためのキーワードを知っているなどの素養も必要になってくるでしょう。
「ググれカス」ということばは、「グーグルなら何でもやってくれる」というネット万能主義を前提にしたものです。
最近ではGoogleもアルゴリズムを改変するなどして情報価値のないサイトを排除するよう努力しているようですが、やはり検索によって得られる情報の質は、検索者の手腕にゆだねられている点は変わりません。
あの堀江貴文も、(いかにも「ググれカス」と言いそうな人ですがw)適切にググるにはコツが必要といっており、単純にググれば望む情報が手に入るとまではいっていません。
その意味で、情弱な人間には「ググれカス」という言葉だけでは足りないんです。情報収集とググる場数を積まなければ、検索しても知りたい情報ってなかなか出て来ないですからね(僕自身が情弱なのでよくわかりますw)。
考えてみれば、ググるというのはかなり知的な作業です。
情弱な僕でも、検索ワードという「ことば」の領域ならちょっとは考察できると思うので、少しこの点を記しておきましょう。
そもそも適切な検索ワードを入力するためには、調べようと思った事柄を抽象化・概念化して必要な要素を抽出しなくてはいけません。
この物事を概念化するという考えは、勝間和代の著書でも提唱されてます。
上記の著書では概念化の例として、どら焼きが出てきましたので、ここでもどら焼きを例にしてみましょう。
たとえば
「藤子不二雄のアニメをしょっちゅう見ている外国人に、日本のお菓子であるどら焼きをプレゼントすることになった。どんなどら焼きがいいか調べよう。」
という場合、どんな検索をするべきでしょうか?
普通に「どら焼き」と検索すれば、全国の有名などら焼きの情報が手に入るでしょう。
有名で美味しいどら焼きをプレゼントしたいという目的を達成するなら、これで十分です。
しかし今回プレゼントする相手は「藤子不二雄のアニメをしょっちゅう見ている」ので、ドラえもんファンである可能性が高いです。
ならばドラえもんにちなんだどら焼きがいいと思うでしょう。そうすると検索ワードに「ドラえもん」が加わります。そうすると検索結果はガラリと変わります。
これなら、ドラえもんのどらやきのモデル店とされる新宿「時屋」を選ぶことができますね。単に有名などら焼きを送るよりプレゼントとしてより適切なはずです。
ちなみに、僕も実際に時屋に行ったことがありますが、フリスビーのような巨大どら焼きも売っており面白いです。どら焼きのお土産を買うお店としておすすめですよ。
このように、同じ検索であっても
①ドラえもんの好物はどら焼きであるという知識、及び②プレゼントの相手はドラえもんファンであるという概念を抽出するセンスがあるのとないのとでは、得られる情報が全く違ってくるのです。
上記のような「言葉の概念化と抽出」というテーマは、国語関連の教育でやってみても面白いと思いますけどね。文法や文学だけでなく、こういった言葉の機能的な側面を考えさせるのは情報化社会には必要な気がします。
そんなわけで、「ググれカス」といいつつも、上手くググるって実は難しいんですよ。
知識やセンスがあるものは検索によりいい情報が手に入ってますます情報通になり、その逆もあり得る・・つまり情報格差がますます拡大するということなんでしょうね。
日ごろから情報を大事にしないと、ググることすらままならないんだなと思うと、情弱な僕には耳が痛い話です。
それでは、また。