こくごな生活

国語や法律のソフトな考察を中心とした日常雑記録

多摩センターが故郷の団塊ジュニアがこの本を読むとたまらなく切なくなる ~重松清「トワイライト」~

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こんにちは。

 

今回は、こんな小説について書いてみます。

 

トワイライト (文春文庫)

トワイライト (文春文庫)

 

重松清の小説 トワイライト

 もう10年以上前の小説ですね。

 

この小説が発売されていたときは、僕はまだ青年期。

仕事の傍ら国家試験を受けており、まだ夢を追う時期でした。

 

そのころは専門書やら啓発書、たまに漱石などの文学小説やらを読み漁る日々で、今回のような現代小説を読むことはほとんどありませんでした。

最近、古本屋などに立ち寄ると、そのころ読んでいなかった本が並んでおり、思わず手に取ることがあります。今回の小説もそんな経緯で手に入れた本です。

 

この本の舞台は「たまがわ中央駅」。

ドキッとしました。僕の生まれ故郷は多摩センターなんです。自分の故郷を題材にした小説であることを、実際読んでみて初めて知りました。

 

駅前のテーマパーク、今は老朽化してしまった団地、統廃合する学校・・。

普通の人がこの本を読むと、落ちぶれていくニュータウンの景色を淡々と書いた作品に見えるかもしれませんが、実際にそんなニュータウンで幼少期を過ごした僕にとってはとても切なくなる描写です。

 

あの頃の多摩市は、立派な施設がどんどん増設されており、ちょうどシムシティのように町が発展していくのを肌で感じることができました。僕ら「多摩っ子」は、そんな「上昇気流」のなかで子供時代を過ごしたんです。今回の小説の主人公もそんな「多摩っ子」の一人でした(彼らの年代は僕より上ですが)。

 

しかしそんな発展もいつか終わりがきます。

僕も主人公と同じく、最近の多摩ニュータウンの様子を見に行く機会がありますが、古びて果てていきそうな故郷の風景をみていると、上昇気流に乗れなかったうまくいかない自分の人生と重なり、何とも黄昏た気持ちになります。

 

この小説の題名もまさにトワイライト(黄昏)。

この小説の登場人物は、出身の小学校である長山西小学校(おそらく「永山東小学校」のこと)に小学生時代に埋めてあったタイムカプセルと掘りにいきます。そして大人になった厳しい現在と小学校時代に見た将来の夢とのギャップが切々と描写されています。

 

あれから本当に自分は成長したのか?

それとも未熟なまま黄昏てしまうのだろうか?「ニュータウン」のまま老朽化したあの故郷のように。

 

それでもこの小説の多摩っ子たちは、この地に新たなタイムカプセルを埋めることにしました。おじいちゃん・おばあちゃんになった自分たちのために。

今の自分たちを未来に送り出していくその姿に、僕はささやかな希望と感動を覚えました。若いときのみずみずしい夢や希望はないかもしれない。しかしまだ未知の時代に自分を託そうとする彼らの気持ちは、僕の心を前向きにしてくれます。

 

この小説が発表されて、既に十数年が経ちました。

その間、多摩ニュータウンの住民(特に永山や豊ヶ丘等の初期開発エリア)はさらに高齢化していきました。

しかし鶴牧などの後発開発エリアは美しい街並みを誇っており、団塊ジュニア世代を中心としたベットタウンとしての機能を果たしています。

そして初期開発エリアも、団地の改築や街の整備が行われ、朽ち果てないように懸命に踏ん張っている姿がうかがえます。そしてニュータウンとしての新たな可能性を必死に模索しているのです。

 

多摩ニュータウン物語―オールドタウンと呼ばせない

多摩ニュータウン物語―オールドタウンと呼ばせない

 

 自分の親の世代の町ですらニュータウンであろうとして必死にもがいている。

世間からゴーストタウンと揶揄されようとも、このままで終わらせられない、という思いは上記の本にも表れています。

 

そんな故郷を見ていると、こんな自分も「もっと足掻いてみよう」と思えるんです。

これからは日が傾く年代だけど、黄昏るのはまだ先でいいでしょう。

「ニュー」タウンで育った多摩っ子ですもの。

 

この小説を読んでちょっと重苦しい気持ちになりつつも、多摩ニュータウンを思うと、僕の「トワイライト」はもう少し先でいいか、と往生際の悪いきもちになるんですw

 

以上、重松清「トワイライト」の読後雑感でした。 

それでは、また。

 

 

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