こくごな生活

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高校の教科書ではなぜ「羅生門」ばかり掲載されるのか?国語講師・学参編集者の視点で考察する

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こんにちは。

 

みなさんは高校時代の国語教科書で読んだ文学作品について覚えているでしょうか?

 

代表作としては「こころ」(著:夏目漱石)、舞姫(著:森鴎外)などなど挙げられますが、高校の国語は大抵この作品で始まるのではないでしょうか。

 

羅生門(著:芥川龍之介

羅生門・鼻 (新潮文庫)

羅生門・鼻 (新潮文庫)

 

下人が死人の髪の毛を引き抜いていた婆さんを殺害したシーンが印象的な「あの」作品です。 

 

この「羅生門」、国語総合の教科書では、出版社問わずまず間違いなく収録されています。つまり高校時代国語を学んだ人ならほぼ間違いなく読んだことがあるであろう作品なわけです。

 

今回は、「羅生門」(著:芥川龍之介)が、なぜ長年にわたり高校の国語教科書で採録されているかについて、国語講師と学参編集を経験した僕の視点から記してみたいと思います。

 

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1 ほぼすべての教科書に収録されている定番作品

国語の教科書に収録される作品は、学習指導要綱に基づき各教科書出版社の編集委員が決定します。編集会議の中では、時代背景や指導要綱が変われると収録作品も見直しが行われるわけですが、「羅生門」についてはまず間違いなく収録されています。

 

ちなみに平成30年度において、高校の初等国語教科書である国語総合の教科書を出版しているのは以下の通りですが、各社全て「羅生門」を収録してますね(参考資料:新潮文庫 高等学校国語教科書採用作品一覧)。

 

つまり文系・理系問わず全国の高校生ほぼすべてが「羅生門」を読んでいることになります。星の数ほどある文学作品の中でこれだけの扱いを受けるのは、すごさを通り越して不思議ともいえます。

 

2 著作権の問題が生じにくいので収録しやすい

これほどまでに「羅生門」が教科書で収録されやすいのは何故でしょう。

まず一つ挙げられるのは、このような定番作品は著作権者への配慮をしなくてもいいので教材利用しやすいということが考えられます。

 

著作権法では、国語教科書として利用する際には、一定条件のもと著作権者の許可をとることなく作品を掲載することが認められています。

著作権法33条

公表された著作物は、学校教育の目的上必要と認められる限度において、教科用図書(中略)に掲載することができる。

 

 

しかしこの規定があるからといって、著作権者に無断で文学作品を使用するのはトラブルの元です。したがって作品使用者は、事前許可のための交渉・手続きをとるというコストを負うことになります。

 

しかも、たとえ教科書に収録したところで、各出版社で副教材を作るときに著作権法33条の規定が適用されず、当該作品が利用できなくなってしまうことが考えられます。

 

例えば教科書ドリルなどの副教材を作成するときには、掲載作品の文章を切り貼りしたり空欄部分を作ったりします。その際に「このような加工をするのは著作者の意図に反する」などとクレームがかかることが起こり得るのです。

少なくともそのような危険をはらむ状態で教材を作るなんて、作成者にとってはたまったものではありません。

 

ちなみに僕の職場でも、文章題の教材を作る際は、(遺憾ながら)過去の素材を使いまわすことがあります。これは手抜きをするためではなく、なまじ新しい作品を採用して上記のようなリスクが生じるのを防ぐためです。

 

たとえば模試を作るときに、

  • 対象となる受講生にふさわしく
  • 本試験の傾向に沿っていて
  • 著作権を気にしなくてもよい

という条件をすべて満たす素材というのは、想像以上に手に入れづらいものなんです。

 

僕のところですらこのような状態なんですから、高校用教科書を作る人たちは相当著作権について神経質になっているはずです。

その点、「羅生門」は著作権者である芥川龍之介の生前から教科書として利用されていた時代があり、学習教材として定番の地位を築いていますので、著作権云々を気にする必要はありません。

 

つまり、わざわざリスクをとって新しい作品を採用するよりも、定番を継続した方が教科書を作る側からすると「安心」ということなんだと思います。

 

3 生徒にウケる内容である

次に生徒の立場からの理由として考えられるのが、「羅生門」の内容が比較的生徒とって読みやすい点が挙げられます。

 

同じく高校教科書の定番である森鴎外の「舞姫」のように古風な言い回しは少ないですし、夏目漱石の「こころ」よりもストーリー展開がコンパクトです。

しかも老婆が死体の毛を抜いてかつらを作るなどかなりインパクトのあるシーンもあるので生徒の興味を引き付けることが期待できます。その意味で高校の国語の導入を飾る国語総合(現在の指導要綱では「現代の国語」と「言語文化」に分化)にはふさわしい素材といえるでしょう。

 

4 教科書の序盤に定番を入れた方が先生が教えやすい?

羅生門」は既に国語教科書に定着しており、教師のための指導資料や副教材が確立しています。

 

石原千秋氏は、自身の著書「国語教科書の思想」の中でこの点に着目し、教科書出版社が新学期に忙しい教師のために授業の準備がしやすい作品を選んでいるのではないか、という指摘をしています。

国語教科書の思想 (ちくま新書)

国語教科書の思想 (ちくま新書)

 

 確かに少子化が進んで教科書営業が苦しくなる出版社としては、先生方にもそのような「忖度」をしたくなるのかもしれません。

 

しかし国語を教えている立場からすると、素材が変わらないからその分ラクができるかというと(個人的には)そうでもありません。

 

僕が去年と変わらない素材を教えるならば、やはり教案をその都度見直します。

その年のトレンドに沿った例え話を盛り込んだり、学習指導要綱に応じて前年よりも生徒に考えさせる時間を増やしたりと、新素材に変わらないだけの労力をつかっているのです。むしろ 「あの先生は毎年同じことを話している」と思われないようにするため、かえって気を遣うくらいですね(この辺は先生によって個人差があるでしょうけど)。

 

ただ、新任の先生がいる場合などは、教え方が確立している素材があった方が助かるかもしれません。その意味では「羅生門」は、国語の先生にとっても導入役としてふさわしいといえます。

 

5 学習指導要綱に沿っているから?

国語教科書編集者にとって学習指導要綱は絶対的なものです。長年教科書の素材として君臨してきた「羅生門」は、さぞかし要綱の趣旨に沿った作品といえそうですが、果たしてそうなんでしょうか?

 

確かに「羅生門」が教科書の素材として定番化し始めた1970年代から、学習指導要綱の中で「主題を理解してそれに対して自分の意見を持つ」ことが強調されました。

この点「羅生門」は、生きるためのエゴイズムという明確な主題があるし、感情移入しやすいストーリーで高校生が自分の意見を持ちやすいので、要綱に即した教育素材といえそうです。

 

しかし学習指導要綱は数年ごとに改変されます。そのすべての要綱にとって「羅生門」が最適だった、とまでいうのは言い過ぎな気がします。

結局、「羅生門」が定番化したのは、2~4のような事情から出版社等の教育関係者が「無難な路線」を選択したことからおこった現象といえるでしょう。

 

その定番が学習指導要綱に沿っているか理由は、(表現は悪いですが)いくらでも「でっちあげる」ができます。

例えば現在の高校国語の学習指導要綱では、「生きる力」や「主体的・対話的で深い学び」がテーマになっています。

羅生門」がそのような趣旨のもと積極的に選ばれる理由は乏しいのですが、それでも「職を失って極限状態になった下人の言動を題材に生きることの厳しさについて話し合うことで、主体的・対話的な学習が可能である」というような説明が一応できてしまうのです。

 

そんなことを考えると、学習指導要綱は、新規作編入の際の関所にはなっても定番を積極的に選び取るための理由にはならない気がしますね。

 

6 これからの「羅生門」の扱い

このように「羅生門」が教科書の素材として定番化したのは、積極的な理由があるというよりも、教育者と生徒双方にとってまずまず無難な位置にあるから「いつの間にか」そうなったという側面が強いのではないでしょうか。

 

この点、そろそろ「羅生門」の定番化を見直すべきではないかという教育者も出てきています。

例えば、川島幸希氏はその著書「国語教科書の闇」の中で、「羅生門」のような死をテーマにした陰鬱な作品よりももっと高校生にふさわしいものがあるのではないかと指摘しています。

国語教科書の闇(新潮新書)

国語教科書の闇(新潮新書)

 

 しかし僕は、「羅生門」が定番化することにはそれほど悪い感情を持っていません。

 

確かに川島氏が指摘するように、現代の高校生が「羅生門」から指導要綱の高尚な理念を読み取るのは難しいかもしれません。そして分からないものを無理に読ませて生徒に自己嫌悪感を負わせるべきではないと考えるのも一理あります。

 

しかし高校のときにこういう作品に触れなければ、読書好きでもない限り「なんだかモヤモヤした薄気味悪いもの」について考える機会が二度とないかもしれません。国語を教えるもののエゴかもしれませんが、それはそれですごく勿体なく感じます。

 

たとえそのときは誤解であっても、教科書を媒体にして「誰もが知っている作品」のテーマについて一度考えることは、決して無駄なことではないと思いますけどね。定番作品という共通項を通じて、成長に伴う自分の考えや解釈の変化、そして他者との考えの違いなどを理解することができるのですから。

 

これからも「羅生門」には、そんな感じで国語教科書の定番としての役割を果たしてくれればな、と思う次第です。

 

そんなことを書いていたら、僕も久々に「羅生門」を再読したくなってきました。

ガキの頃よりはまともな解釈ができるようになったかな?

 

それでは、また。

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