こくごな生活

国語や法律のソフトな考察を中心とした日常雑記録

「行間を読め」じゃ、分からねーよ ~国語を分かりやすく教えるってどういうこと?~

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こんにちは。

 

今回は、分かりやすい国語(特に現代文)の授業ってどんなもの?というお話です。

 

国語のようにとりとめもない世界を分かりやすく説明しようとすると、方針がつかめずに迷いが生じることがあります。

そこで参考までに、国語の授業における分かりやすさとはどういうことなのかについて、僕なりの考えをまとめておきたいと思います。

 

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1 国語は説明しづらい科目

国語の授業というのは、数学のような一義的な解法が見えづらく、勉強しづらいという内容の記事を書いたことがあります。

 

bigwestern.hatenablog.com

 

これは教える側も同様です。

長文読解は明確な法則に則った解法がない分、慣れないと教えづらいです。

 

しかし教えづらいからといって

「行間を読め」

「読書をして国語の感覚を培えばわかるようになる」

みたいな精神論に逃げてしまったら、授業を受ける側からするとたまったものではありません。国語が苦手は人は、そう考えられる境地に至ってないから苦しんでいるのです。教える側は、なぜそのように考えられるようになれたのか、つまり国語ができるようになったプロセスを客観的に自己分析していく必要があります。

 

 

2 分かりやすい授業と安直な授業は違う

このように分かりやすい授業のためには、解法までのプロセスを客観的に示す必要があるわけですが、そのような説明をするにはどうすればいいのでしょう。

 

前提として、分かりやすいという言葉の意味について明確にしておきます。

 

ここでいう分かりやすいとは、聞き手の頭に負担がかからないラクな説明という意味ではありません。

 

たとえば、読解問題の解説のときに、単に根拠になる部分に線を引いて「だから正解は○○だよ」というだけで説明を終えたらどうでしょう。

説明はとてもすっきりしていていますが、なんだか印象に残りません。聞き手としては頭を使わない分ラクですが、「ああ、そう。」で終わってしまいます。

 

もちろん教える側もこのままでは面白くないと分かっているので、雑談を駆使してウケを狙う人もいます。「面白い先生」という箔がつくと、それが人気につながり、自分は「わかりやすい授業をしている」と錯覚に陥ってしまう場合もあります。

予備校講師にありがちな罠ですが、こうなるとタチが悪い。その場の面白さのみで、最終的に何も残らない授業になってしまいます。

 

3 分かりやすい授業に必要な2つの要素

本来、分かりやすい授業とは、そのようないい加減なものではなく、

① 教える側と生徒が対象に対する興味を共有し、

② 正解に至るまでの思考プロセスをともに味わうことができるもの

です。つまり、問題を通して国語ができる人の思考を追体験し、「できる自分」のイメージを育てていくことができる授業のはずです。

 

たとえば、好きなスポーツ選手のプレイを見ているとそのスポーツが上手くなっていくような軽い自己陶酔に陥ったことがありませんか。そういう高揚感をあたえ勉強に対する動機づけができる授業が、いわゆる「分かりやすい」授業なのではないでしょうか。

 

といっても、このままでは抽象的すぎるので、具体的な方法をもう少し掘り下げてみましょう。もちろんこれが国語の授業の正解というわけではありませんが、よい授業を考える上での一つの切り口だと思ってください。

 

⑴ ①について(前提として文章の内容理解を共有する)

僕が国語の読解問題の講義をするときには、すぐに設問に入るのではなく、基本的に文章の要約をして解説します。もちろん多くの先生もやっている方法だと思いますが、何故こんなことをしているのでしょう。この理由を意識するのとしないのとでは、解説の切り口の鋭さが全然違います。

 

僕が設問に入る前に文章を要約するのは

ア 文章の構造を把握して、設問に応じて参照箇所を取り出しやすくすること

イ 文章内容を再確認して生徒と共通認識を持つこと

が理由です。

 

文章を要約するには、必要に応じて情報を取捨選択しなくてはなりません。

僕は、その取捨選択の過程をみせることで、文章の構造を解説しているのです。文章を単なる文字の羅列ではなく構造的にを理解するのが重要なことは以前にも述べました。

bigwestern.hatenablog.com

 

「国語力をつけるには要約させるべき」という意見をよくききますが、それと根っこは同じです。本当なら読解問題ごとに生徒自身が要約するのが理想ですが、それができないときは、せめて教える側がその過程を提示して、生徒に文章の構造を把握する疑似体験をさせるわけです。

 

そしてもちろん形式的な構造だけではダメで、中身を理解してもらうことが必要です。

つまりその文章の内容についての説明をするわけですが、これが難しい。というか、ここで国語の先生の良しあしが決まってしまうといってもいいくらいです。自分自身が普段そのテーマに興味を持って過ごしているか(つまり自分が本当に国語が好きか)が聞き手に「バレて」しまうんですね。

 

ここでは単に専門的な知識の披露をしてはダメです。聞き手がウンザリします。日常的な例を出すなど「体温のある」説明をするほうがいい。

 

たとえば、重松清茂木健一郎著の「涙の理由」という本の内容を解説するとしましょう。

涙の理由

涙の理由

  • 作者:重松清,茂木健一郎
  • 出版社/メーカー: Takarajima Books
  • 発売日: 2009/02/07
  • メディア: 単行本
 

 

この本の中で、茂木健一郎さんが笑いという感情について「偽の警告仮説」というダーウィンの説を紹介しています。笑いという感情は、本能的に伝播しやすいものだという考えですね。

 

「危機が迫ってきたときに警告音を発するが、それが偽の警告であることが分かったときに・・・笑うことで緊張を緩和させる働きがある」

(つまり笑いは)皆を安心させるためのものだから伝播しないと困る。

 

 

このときに例えば、「テレビのバラエティで観客や出演者を大勢集めて笑わせてるのは、視聴者に『ここは面白い場所だから笑え』というメッセージを送って、つられて笑わせることを狙っているのかもね。」みたいなことが言えるか、ということです。

 

このように国語的な考え方を実生活に落とし込んで使いこなせている姿をみせることで、生徒は「国語ができるとはどういうことか」を覚知するわけですね。この過程を端折って、「テーマに興味を持って本をたくさん読みましょう」などの抽象論を生徒にぶつけてしまうと、国語の授業が単なるお説教の時間になってしまいます。

 

⑵ ②について( なぜ自分が分かっているのか説明できるか)

たまに「自分はお手本を見せるだけで、あとは生徒が努力をするべき。勉強できないのは自己責任だ。」みたいに妙に突き放した態度の人がいます。勉強ができるタイプの先生に多いですね。

 

分からなくはない考えですが、これでは一定レベルに届かない生徒を置いてけぼりにする授業になってしまいます。聞き手の学習効果をより上げるためには、自分ができる姿を見せるという姿勢だけではなく、自分がなぜできているのかという自己分析を怠るべきではありません。

 

たとえば、「この肢が正解となる根拠はこの部分だ。」で終わらせずに、「何故、自分はこの部分に着目できたのか」を考え、それを自分の言葉で説明するわけです。このひと手間があるだけで参考書の解説を読み上げるような凡庸な説明ではなくなります。

 

このように何故これを正解にできたのかを掘り下げると、教えるべき文章の構造や内容の知識レベルが見えてきます。これは参考書で教えるのは難しい。正解した人間が持つ感覚知のようなものは数行の解説では語りつくせないものです。

 

国語の世界では正解主義は何かと嫌われますが、少なくとも読解問題の解説の際には「なぜ自分が正解したのか」と、結果から逆算したほうが説明する内容に整理がつくと思います。

 

この整理方法は、読解問題のとき一般教養をどこまで織り込むべきかという問題解決にも役に立ちます。

 

国語が好きな人にありがちなのが、自分の好きな分野の知識の披露をしてしまい、問題の解説はおまけ、みたいな説明をすることです。教養の披露をして自己陶酔に陥っているだけなのに、「自分は国語の楽しさを伝えている」と勘違いしてしまうケースですね。

 

気持ちは分からなくはないですが、これではやはり聞き手がおいてけぼりをくらいます。教養は読解の解法とできるだけリンクする形で味わわせたほうがいいのです。読解演習と真の教養養成が結びついたとき、生徒は目の前にある問題を解く喜びが増しますから。

 

そのためにも、自分が正解に行き着いた客観的プロセスを中心に説明内容を考えるのがいいわけです。

解答プロセスの中でわかりづらい知識やイメージしづらいテーマに遭遇するはず。そういう「ひっかかりやすい部分」を事前に把握しておけば自らの教養を生かしかみ砕いて説明するポイントが見つかるはずです。

 

もちろん脱線のような教養話をすること自体がいけないとは思いませんが、読解問題とのリンクを常に意識しておけば、客観的な解法説明と脱線話とのメリハリも付けやすく、結果的に分かりやすい授業になりやすくなるということですね。

 

4 生徒との信頼関係は必須

分かりやすさという評価は多分に主観を含むものです。

どんなに論理的に美しい説明でも、聞き手に共感を持たれなければ意味がない。この記事の前半で、スポーツ観戦のような高揚感を与えることが分かりやすさにつながると述べましたが、これは生徒が教えている人間に心を開いていないと無理です。

 

つまり、分かりやすい授業をするには、先生と生徒に信頼関係があることが必須なんですね。こういう関係構築が上手くいけば、

 

信頼している人の話は分かりやすく感じる

    ↓

分かりやすい授業をするから信頼される

 

という好循環になります。

 

もちろん逆も然りなので、その辺が怖いところですが。

 

5 まとめ

以上、読解問題を中心とした分かりやすい授業について考察してみました。

 

ここまでとりとめもないことをいろいろ書いてきましたが、最終的には聞き手のことを考えることが最も重要なんだと思います

 

読解問題の解説において聞き手は、正解までの思考プロセスを理解して知的な喜びを得たいわけです。

そのために教える側は、「なんで自分が正解したのか」という道筋を教養を織り交ぜながら示すことで、「国語ができる」イメージを持って帰ってもらう必要があるわけです。

 

そのイメージの充実度が、これすなわち「分かりやすさ」ということなんだと思います。今回僕が述べた方法論は、そんな充実した気持ちを生徒にプレゼントするための一つの私案ということです。

 

それでは、また。

 

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