「学校の現代文の授業って受験に役立つの?」 と聞かれたらどう答えます?
スポンサーリンク
こんにちは、ぽちです。
国語というのは正体不明なものです。
特に現代文は古典・漢文と違って明確な体系もなければ覚えるべき法則もありません。
でも、あるいは学習塾ならば、受験に特化した問題を解くことで実践感覚を身に着ける等、ある程度は勉強の形がイメージできるでしょう。
では学校の授業は?
今授業で解説している文章なんか、ほぼ間違いなく受験に出ませんよ?
漢字や語句の意味だって、受験で的中するなんて、まず考えられませんし。
それでも国語って大事そうだから「なんとなく」授業を受けている、というのが多数派の生徒の感覚じゃないでしょうか。
これでは現代文について云々しているブログ主としてちょっと寂しいです。そこで、今回は、できる限り学校の現代文の積極的意味について考えてみたいと思います。
1 現代文の授業は先生の「自由演技」がききやすい
学校の現代文の授業は、数学などの明確な公式や社会などの覚えるべき知識が明確ではありません。勉強する対象の輪郭がはっきりしない分、教える先生の個性が比較的でやすい科目です。
指示語の内容や段落の構成を綿密に教える論理研究タイプもいれば、「この主人公の気持ちをみんなで話し合おう」みたいな情緒的(?)なディスカッションに持っていくタイプもいます。
これはそれぞれの良さがあるので、どちらがいいという問題ではありません。
最終的には文章を正確に読んで、それに対して自分の意見を持てるようになれれば、国語の授業としては成功だと思っていますから、そのための方法は複数あっていいと考えます。
2 受験との大きな違い
しかし、どのような方法をとったとしても、学校の現代文の授業は受験の長文読解と違うとことがあります。
学校の現代文の授業は、文章の部分的な解釈論ですが、受験ではまとまった文章全体を一人で把握しなくてはいけません。
学校の授業では、1つの文章を「今日はこの段落からこの段落まで」みたいにぶつ切りにして、その部分だけを綿密に読んでいく手法が一般的です。そして該当箇所の語句や漢字を覚えたり、指示語の内容を暗記したりすれば定期テストでいい点数が取れる、みたいな仕組みです。
このやり方だと、自分一人でまとまった文章の内容を把握することをしません。
よく「短い文章なら読めるのに、長文になるとダメ」みたいな人がいますが、これは細切れの文章の解釈ばかりやって、「長文読解」をやっていないからなのです。
このような症状(?)は、英語の文章読解でも同じですね。
しかし英語の場合は、英語の文そのものを読めることに意味を感じられるかもしれませんが、国語の場合に短い文の解釈だけができても、少なくとも受験上はあまり役に立った気がしないのではないでしょうか。
3 学校の授業では 社会のテーマ(問題意識)をもらう
このように見ていくと、やはり学校の授業が直接受験に役に立つというのは難しい。
しかし、授業の解釈的な読み方にももちろん利点はあります。一つの文を丁寧に読んでいくので、その文章のテーマについてじっくり勉強しやすいのです。
テーマについてじっくり勉強するというのは、やみくもに専門知識を詰め込むことではありません。
評論文ではどんなことが話題になりやすいか
小説では時代や場面ごとにどんな心情が生まれ、どんなふうに描かれているのか
など、世の中を論じる際の「切り口」みたいなものを見てほしいわけです。
例えば
リベラルな考え ⇔ 伝統的・保守的な考え
自然と共生 ⇔ 自然を開発
IT社会推進論 ⇔ IT社会悲観論
人生の前向きに見る ⇔ 人生を悲観的に見る
努力第一・弱肉強食 ⇔ 境遇や才能を配慮・弱者救済
など、世の中にはテーマが無数に存在するわけです。
定期テストを受けるためだけに学校の現代文の授業を受けるだけではなく、ついでにこのような「社会の問題意識をもらう」ような姿勢があれば、しめたものです。
たくさんのテーマを知れば、考える切り口が増えますから、初めての文章でもとっつきやすくなることが多くなり、間接的に受験対策にもなるのです。
僕の経験上、国語を教えるのが上手い先生は、生徒たちにこのような問題意識について興味を持たせることが上手な人が多いです。
4 国語の教科書を通読したことがありますか?
たまに「国語力を上げるために読書をしたい。よい本はないか?」と聞かれることがあります。
このブログでは、読書さえすれば国語力が上がるわけではないという立場ですが、それでもあえてそれに適した本を一冊挙げるとすれば、僕は国語の教科書にします。
拍子抜けですか?
もっと役にたちそうなハウツー本や、受験でよく扱われそうなテーマの本を期待していたかもしれませんね。
しかし僕に言わせれば、みんな教科書を馬鹿にしすぎなんです。
教科書は、教育的配慮をもって編集されているので、偏りすぎた意見の文章や難解すぎるテーマを扱った文章はありません。しかも各ジャンルの作品を総合的に集めているので、前述の社会についてのテーマを知るうえではこれ以上の本はありません。
教科書であるテーマについて興味を持ったなら、それに関する本を読んで教養を広げられる可能性が出てきます。
僕は、このように教科書一冊からスタートさせて、そこからどんどん具体的な社会問題についての素養や知識を派生させて学習していくような授業を一度やってみたいです。
学校で実践するは難しそうですけどね。
実際にそんな授業は無理でも、生徒の皆さんには、できればそれに似た経験を各自でしてほしい。自分で教科書を「通読」すれば長文を理解する訓練にもなるし、下手な本を読むより、よほど学習効果があると思いますよ。
5 さいごに
このタイトルの僕なりの解答をするとすれば、
学校の授業は、国語の世界の教養を広げるための導入になりうる。
読解演習を並行して行うことで、間接的に受験の役に「立たせる」ことは可能だ。
と答えます。
教わったことを受け身で覚えるだけでは役に立たない、というのはどの勉強の分野でも同じだとは思いますけどね。
なお、今回は学校での現代文の授業に絞って話をしましたが、国語一般の勉強について知りたい方は、以下の記事を参照してみてください。
国語は正体不明の科目に思われがちですが、学校の授業、読書、そして問題演習と、それぞれ有機的につながっているので、それぞれの良さを利害できれば、納得して勉強ができるはずです。
それでは、また。