こくごな生活

国語や法律のソフトな考察を中心とした日常雑記録

もう正しい読解よりも「炎上」評論の方が面白いのだろうか?~ブログ閲覧と読解の違い~

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こんにちは、ご訪問ありがとうございます。

 

以前に、読書に親しむために、まずはじめに活字に親しむことから始めることをお勧めしました。

 

bigwestern.hatenablog.com

 

この記事では、ブログだって活字であるから、極端に言えばこれを読むことだって活字に親しむ行為の一貫なんだ、という趣旨の記述があります。

 

今でもこれは概ね間違っていないと思っていますが、若干ミスリードの危険があるかな?と思ったので、今回は補足の意味を込めて、ブログを読むという行為についての国語的な考察をしてみたいと思います。

 

 

1 単に「活字に親しむ」と文章読解は ちょっと違う

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読書に限らず、活字に親しむことは、文章読解の際に「文字が沢山あるものを見るのは苦痛だ」という拒絶反応を和らげる働きがあるので、その意味での国語的な教育効果はあると思っています。

 

とはいえ、活字に親しみさえすれば文章読解能力がつくのか、というとそんなことはなですね。

以前、国語が苦手な生徒と、親御さんを交えて勉強法についてカウンセリングをしていたとき、「お子さんに読書の習慣はありますか?」と聞いたことがあります。その生徒に活字を追って論旨を掴む習慣があるかどうかを聴きだすためです。

すると、「読書はちょっと・・釣りが好きなので釣り雑誌はよく読んでいるようですが。」という答えがかえってきました。

 

この場合、その生徒は釣り雑誌を読むことで「活字を追う」習慣自体はついています。

しかしそれは、釣りの情報を得るために活字を追っているのであり、文章の論旨を掴もうとしているわけではありません

 

僕は、この生徒の場合、興味のあることなら活字を追うくらいの知的な体力はあるけど、論旨を掴むという国語的な読解は一からやり直した方がよさそうだな、と判断しました。この場合、文章読解で扱うテーマについて最低限の興味を持たせ、(単なる情報取得のためではなく)論理的に論旨を追う訓練をすれば、読解力は上がっていくケースが多いのです。ちなみにその生徒は、めでたく国語を好きになってくれて志望校に合格したわけですが。

 

このように、活字に触れるといっても、その目的によって読解の訓練になる場合とそうでない場合があります。長文読解が苦手なら本を読みなさいという人はいるけれど、新聞を読みなさいという人は少ないですね。新聞は情報を得るために読むものなので、読解とは趣が異なるからです。

 

2 ブログは新聞・雑誌に近い

このように考えるとブログを読むことは読書とはちょっと違うかな、と思えますね。

 

ブログを読む作業は、情報を得ることがメインです。

ブロガーの皆さんならお判りだと思いますが、ブログを書くときは、検索されやすいキーワードや旬のネタを「拾って」きますよね。そしてその情報を読者が興味を持ちやすいように加工して貼り付けていくわけです。いわばブログを書くというのは情報加工作業なんです

 

もちろんブログの方針によっては、「語る」サイトもあるかと思いますが、無名の一個人が語るだけで集客できるようなブログなんてごくごく一部。大半が上記のような情報加工を繰り広げている分野といっていいんだと思います。

 

このようにして作られるブログは、前述の釣り雑誌のような読み方をされます。

文章の論旨を正確に追うというより、気にいる情報を拾っていく、という読み方ですね。この読み方だと、文章全体の構造を意識することなく、キーワードを探していくことだけで目的が達成できます。ブログの文章の場合、キーフレーズのフォントを大きくすることが多用されますが、これはそのような読み方をブロガーも意識しているからだと思います。

 

このようなブログの読み方は、たとえ冊子になっても変わりません。

以前にも挙げたブロガーとして有名なイケダハヤトさんの本も然り。

 まだ東京で消耗してるの? 環境を変えるだけで人生はうまくいく (幻冬舎新書)

 

僕も最近この本を読みました。

内容的には、けっこう面白かったのですが、この文章で長文読解問題を作るのは難しい。この本の文章は、まさにブログのそれで、情報ネタ、ハウツーネタに近いです。全体の論旨を丁寧に把握せずとも、キーワードさえ拾っていけば、けっこう目的が達成できてしまいますので、読解力を試す素材にしづらいんですね(もちろん作者もその意図で文章を書いているんでしょうが)。

 

長文読解の場合、ぶつ切りの情報ではなく、全体の論旨からその情報を的確に解釈せねばなりません。全体の論旨を読み解く力は、やはり一定の思想・論理に基づいた、ある程度体系的でボリュームのある文章を読む必要があります。その意味で情報の拾い読みだけになりがちなブログ閲覧は、やはり読解の代わりにはなり得ないのです。

 

3 ブログ的な読み方の危険性

国語教育という点からいうと、このような自分の気に入ったキーワード・情報を拾うだけの読み方ばかりしている傾向は、かなり危なっかしく感じますね。

最近、ブログやTwitterで増えている炎上だって、このブログ的な読み方をしていることが一つの原因だと思うんですよ。

 

 自分の気に入らない人の文章は、往々にして悪く解釈したくなります。

 そうすると、ちょっと不適切(そうな)キーワードを見つけると、そこから自らどんどん「けしからん」作者像を作り上げ、それに向かって猛攻撃していくわけです。

 

こういう場合、文章全体を見ると、その人はそこまでヘンなことを言っているわけではないことが多い。しかし攻撃している人からすると、「そんな表現を使った奴の文章」という気持ちになっているので、もう「攻撃対象」を探すことに意識を持っていかれてしまってます。こうなると批判の応酬、つまり炎上まっしぐらです。

 

この種の荒っぽい「キーワード読み」は以前にも少し取り上げました。

作文問題のときにこの読み方をするのはまずい、ということです。

 

bigwestern.hatenablog.com

 

4 ブログ的な書き方の危険性

とはいえ、「つり記事」「炎上商法」という言葉にもみられるように、書き手の側に問題があることもあります。やはりキーワードの影響力を利用した悪い例といっていいでしょう。

 

しかも、ブログやTwitterは、注目を集めるために、どんどん情報を「盛る」方向になっています。もはや正しい情報を伝えるよりも、情報をデコレーションしていくことに楽しみを覚えてしまっている感さえあります。

前の記事であげた岡田斗司夫氏の本には、情報を「盛る」文化はもう止められない、とまでいってますね。

 

 そんな分野で、「文章全体の論旨を捉えて、作者の意図を正しく読み取りましょう」なんて言っても、ちょっと通用しないでしょう。

 

僕としては、このようなキーワードと感情が入り乱れている世界を、自分なりに思考整理しながら生きていくために、国語教育が必要になるんだろうな、と思っています。

 

5 「やっぱり読書は大事」だけど・・

そうなると、そのような思考整理の訓練をするためにも、やはりちゃんとした読書をするべきということになります。

 

しかし、このブログでも再三言っていることですが、読解力をつけるためには、ただ読書をすればいいというものではありません。本を読んでいても、前述のような自分勝手な情報のつまみ食いをしているだけでは、国語としての教育的効果は薄い

 

あるいは教育の一般論としては、読書の習慣をつけることそのものにも意味があるかもしれません。

しかし、国語(特に読解問題)の場合に大事になるのは、その本の「読み方」。

 

このブログで、本を読むことの大切さ、という抽象的な情操教育よりも、読解の技術的な内容を掘り下げているのも、その「読み方」にこだわっていきたいからなのです。

 

読み方の基本さえできていれば、様々な意見が飛び交うこと世界でも、そうそう感情が暴走することはない「はず」です。僕はまだ、そういった国語の力を信じていたいと思っています。 

 

 

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