こくごな生活

国語講師だったひとのつぶやき集

国語を教える人間は「正しく美しい日本語を使う嫌な奴」にならないようにしたい

こんにちは。

 

国語の世界では「正しい日本語」とか「美しい日本語」とかを重要視することが多いです。国語を教えるときも、そんな日本語のすばらしさを伝えるために頑張っている教育者の方も多いと思います。

 

もちろん僕も国語を教えていた身ですので、その意義はよくわかります。

しかし、正しく美しい日本語も、その伝え方や使い方を間違えると、かえって逆効果な気がするので、今回はその辺のところを書いてみたいと思います。

 

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たとえば、先日読んだ齋藤孝先生の著書「語彙力こそが教養である」に、誤用されがちな日本語の表現が紹介されていますので、それを例にしてみます。

語彙力こそが教養である (角川新書)

語彙力こそが教養である (角川新書)

 

 

この本では、福田元総理が、北京オリンピックで選手たちに以下のように語ったときのことが書かれています。

 

「せいぜい頑張ってください。」

 

当時、このセリフがもとで、今でいう「炎上」が起こりました。

つまり「せいぜい」という言葉は、「(どうせやってもダメだろうけど}まあ、できるだけ頑張ってみな」というような嫌みのニュアンスを感じてしまうので、一部の人間には不愉快な言葉だったようなんですね(また、福田さんもサバサバしたしゃべり方だったんで、尚更そう感じてしまったんでしょう)。

 

しかし、本来の日本語の意味からすると、福田元総理は正しい表現を使っているのです。「せいぜい」という言葉を漢字にしてみると「精々」。すなわちこの言葉は、「精一杯」という前向きな表現なのです。

 

しかしどういうわけか最近、この「せいぜい」という言葉は、前述のような「嫌み」のニュアンスを含むことが多くなってきました。使用場面がマイナスイメージのときに偏って、それに伴って言葉の意味が次第に変化していったということなのでしょう。

 

さて、本題はこれからです。

では今後、この「せいぜい」という言葉をどう使っていくべきでしょうか。

たとえば受験前の生徒に「せいぜい頑張りなさい」という言葉を使うべきでしょうか?

 

もちろん「本来の日本語の意味からすれば正しい用法なのだから、使っても全く問題はない」と考えることも可能です。

しかし今の子供は「せいぜい」をマイナスのイメージでとらえる可能性が高いです。このように誤解を招くことが多いと分かっている相手に、あえてこの言葉をあえて使うのは、僕は「人としての作法」にそぐわないと考えます。斎藤先生も、このような言葉は相手の立場を考慮して「使わない」という選択肢も用意すべき旨を主張しています。

 

国語を教えていると、言葉の誤用を修正したい衝動に駆られることがあります。

「正しい日本語」「美しい日本語」を伝えたいと思っている人ならば、尚更その傾向が強いです。

そのような人は上記のような例の場合、(たとえば生徒を試す意味で)あえて「せいぜい」という言葉を使うかもしれません。

 

もちろん「せいぜい」という言葉の正しい意味を教えるという教育目的でそのような演出をするというのは一つの考えです。しかし、そうでない限り、正しい意味だからといって、相手に不快感を与える可能性のある言葉をわざわざ選ぶというのは、本当に「正しく美しい日本語の使い方」といえるのでしょうか。

 

つまり、「正しい日本語の意味」にこだわるあまり、その言葉で相手がどう感じるのか考えることを疎かになっては本末転倒だと思うんですね。

教養とは、それを振りかざして相手に不快感を許容させる道具ではありません。むしろ相手の立場を理解する懐を広げ、許容する力のことだと思います。たとえば、上記の福田元総理の言葉を聞いて「イラッ」としなくて済む包容力になるものです。

 

もちろん日本語の誤用に媚びる必要はありません。

しかし、いわゆる「正しい日本語」も、その伝え方や使用方法によっては、かえって相手に悪感情を植え付けてしまいますので、そこを無視して形式的な言葉の正しさにこだわるのはいかがなものかと思うのです。

 

たとえば「知識はあるけど、嫌な奴」に教わったら、国語嫌いが増えてしまいますよね。そうならないためにも、正しく美しい日本語を教えるには、伝える側の気配りといった人間的な作法も必要なのではないでしょうか。

 

それでは、また。