こくごな生活

国語や法律のソフトな考察を中心とした日常雑記録

国語学者斉藤孝先生の本から考えるブログ文章の表現方法~生きた語彙力はネット社会でこそ必要だ~

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こんにちは。

 

僕は国語のことを取り扱うブログを書いていますので、国語教育系の本を読むことが多いのですが、そこで感じたのは、国語教育者の「国語」に対する考え方は本当に人それぞれということ。

 

中には、古典文学を重視して、現代人の言葉の乱れやら読書量の少なさを憂う「原理主義的」(?)な考えの先生方も少なくありません。こういうタイプは、まず古典文学によって「正しい」国語の素養をしっかり身に着けさせ、俗世間の乱れた国語(及びそこから派生する乱れた精神)を修正せねばならん、と考える傾向にあります。

 

無論、こういう古典的な国語の良さは僕も理解しているつもりです。

しかし僕の場合、あまり国語を「説教のネタ」にしたくないんですよね。正しい「国語」により日常を軌道修正するというよりも、まず「日常」があって、それを豊かにするツールとして「国語」を勉強する、というようなソフトな考えの方が好きです。

 

その意味で、僕は必ずしも「SNSは怪しからん、まず本を読め!」とは思いません。

確かに本を読むのは大事ですが、SNSだって国語とは無縁ではありません。むしろSNS社会で生かせる国語力を目指すという現実的な視点が、これからの国語教師は必要になっていくはずです。

 

そもそもバランス感覚に優れた国語の先生は、むやみにSNSを否定しません。

今回読んだ本の著者である斉藤孝先生もその一人。

 

語彙力こそが教養である (角川新書)

語彙力こそが教養である (角川新書)

 

 「語彙力こそが教養である」

最初は「ボキャブラリーを増やすために本をたくさん読みましょう」的な「お説教」の本かな、と思ったんですが、なかなかそうでもありません。

もちろん本の中では、語彙力を豊かにするための名著を読むことも推奨していますが、テレビやネット等の様々なメディアでも語彙力を鍛えられることを否定していません。語彙力をはじめとする国語力を鍛えるには、メディアの種類ではなく、その情報の受け取り方が重要なのですから、ある意味当たり前のことですね。

 

ちょっと前置きが長くなりましたが、今回はこの「語彙力こそが教養である」という本に出てきた内容の中で、ブログなどのSNS活動で生かせそうな点をまとめてみました。

国語の世界に親しみを持つためのアプローチの一つとして参考にしてみてください。

 

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1 頼りがちな言葉をやめてそれをさらに具体化する

斉藤先生は、「やばい」とか「すごい」みたいな言葉は便利な分、濫用しすぎて、自分の表現力を乏しくしてしまうおそれがある旨を指摘しています。たしかに僕も、文章を書くときには、「すごい」などの抽象的な修飾語のみで終わらないように心掛けていますね。

 

そこで「どう『すごい』のか」を具体化する表現が必要になるんですが、これはその人の主観のみではなくて事実をベースにするのが重要なんですね。

拙い例ですが、カレーを例にとるとこんな感じでしょうか。

✖ すごくおいしいカレー

△ 辛口でサラッとした美味しいカレー

〇 玉ねぎをベースに野菜の水分と少量のヨーグルトのみで仕上げたサラッとしたカレー。ホールスパイスがふんだんに入っており、噛みしめると漢方薬のような爽快感を感じる辛さがある。

 

SNSで人気を博している人たちは、この「使える事実」を豊富に持っています。逆に言うと、ブログの筆が進めないときは、こういう事実の素材が少ないときがほとんどです(自分の経験でよくわかる)。

 

2 語彙や口調を含めて「ネタ」である

斉藤先生の本のなかで、自分が聞いた落語やお笑いのネタを面白く伝えるのは難しい、という話がありました。聞いて面白いネタでも、それを面白く伝えられるかは全く別次元の話であるということです。つまり、落語やお笑いは、その人の語彙力・表現力を駆使して面白くしているのであり、話題の意味内容自体が面白いとは限らないということ。

 

これを読んでギクリとしましたね。

よくSNSで情報を発信するとき、「面白いネタがない」と悩むときがあります。でも仮に自分が面白いと思う話題でもそれを取り上げた記事が必ず面白くなるかというと、絶対にそんなことはないでしょう。人気のある表現者は、その話題を様々な語彙やテンポのいい口調などで伝えるから面白いんですね

 

本の中で以下の一文が印象的でした。

「君をとおすと、面白い話も全然面白くなくなるよね」と言われてしまう人は、自分も気づかないうちに脳内で勝手に余計な「編集」を入れている可能性があります。

僕が他のブログなどで面白さの研究をするときがありますが、その際は「ネタ」自体の面白さよりも、その人特有の語彙の使い方などの表現力に注目するようにしています。その意味で、僕はブログで「国語の勉強」をしているといっていいかもしれません。

 

3 情報量と作家性

最後に国語とはちょっと離れますが、ブログメディアに関係しそうな興味深い内容を一つ挙げておきます。

 

斉藤先生は、本の中で、インターネットでは情報量や網羅性が有利だが、本では著者性や作家性という価値があると述べています。これは現在、本をブログに置き換えて読むことが可能なのではないでしょうか。

 

つまり、現在ではインターネットの情報も整備されていて、大手のサイトや有力者の動画などが情報戦を制しているので、情報という面では個人のブログの価値が相対的に下がっています。しかし、同じ情報でも、「この人の切り口で知りたい」と思ってわざわざ個人のブログを訪問することがありますね。作者の「人となり」が一層重視されるという点では、本もブログも同じです。

 

「単に情報を提供するだけでなく、その情報の切り口が大事。」と、どこかの有名ブロガーがいっていましたが、これはまさに、上記のことを言っているんでしょうね。

 

これはブロガーにとってはシビアな話です。

単に知っていることを書けばいいというわけではないということですからね。

しかし一方で、自分のキャラクターを演じきれるというある種の楽しさはあるかもしれません。僕の場合、まだそういうものがないのですが、言葉を使った考察が好きなので、そういう切り口で自分のキャラを模索していきたいと思っています。

 

4 まとめ

そんなわけで、国語は、本の形になっている文学以外のコンテンツからも学ぶという柔軟な思考が必要ではないか、というお話でした。

特に、SNSではツイッターをはじめ活字を扱うケースがまだ多いですから、その中で国語的な技術を意識すれば、より身近で実践的な国語学習の意識が身につくでしょう。

今回の斎藤先生の本によって、そんなことを意識させてくれました。

 

それでは、また。

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