こくごな生活

国語講師だったひとのつぶやき集

自分は明らかに世の中から必要とされていないという真実に「清く正しく美しく」抵抗する

こんにちは。

 

最近、ひきこもりとされる人にまつわる事件が話題になってますね。

川崎市の殺傷事件をはじめ、最近では元事務次官の父親がひきこもりの息子を殺すという事件も起こりました。

 

当然ですが、川崎市の事件の場合、犯人の凶行には同情の余地はありません。

ネット上で話題になった「死ぬなら一人で死ね」というコメントも、僕は、純粋に犯人に対して向けられるのであれば一定の理があると考えます。どんなに犯人が不幸な人生を歩んでいても、(少なくとも今回の被害者が)彼の暴走を甘受しなくてはならない理由は存在しないからです。つまり「他人を巻き添えにするな」という意味では、このセリフは限りなく正しい。

 

しかし、「死ね」という言葉にひきこもりの人などの自殺を助長する波及効果があるおそれがあることを考えると、やはりこの言葉は安易に公言すべきではないのかな、と思います。

これについては僕なんかの文章より、小田嶋隆氏のコラムで丁寧な言及がありますので、こちらを参照してください。

business.nikkei.com

もうひとつ僕が懸念するのは、この事件をみて、「ひきこもり=殺人犯予備軍」という受け取り方が助長されないかということです。

その最悪な例が、元事務次官の息子殺害事件。川崎市の事件を見た父親が「家庭内暴力をおこす息子も、犯人と同じことをするのでは」と考えた末の犯行です。

ただ、精神科医斎藤環によると、ひきこもりの家庭内暴力と通り魔は、精神分析上は異なるものだとされています。

おそらく一般の人も両者をつなげて考えることは少なかったはず。今回の川崎市の事件でその認識がゆがめられたとすれば、これもまた悪しき波及効果といえましょう。実際、ネット上では、父親の殺害行為について「さすが元事務次官!よくやった。大英断!」みたいに、(社会悪になり得る)ひきこもりの殺人を称賛するコメントもあります。

川崎の事件は別論としても、このコメントのように「危なそうなひきこもりなんて消えて欲しい」という風潮が出来上がるとすれば、僕なんかは気持ち悪く感じますね。

 

こんなことをいうと「偽善」に聞こえますか?

いや、僕は普段からかなりひきこもりの目線に近いので、決して上から目線で彼らを「何とかしてあげよう」なんて思えません。自分自身、社会貢献度や市場価値は極めて低く、自己肯定感がなくなりそうになりながら生きているわけですから、ともすると「いつかああなってしまうのでは」と思うこともあります(もちろん犯罪なんてしないですけど)。そんな人間が、上記のような排斥論をきくと、理由なき疚しさを感じるんです。これが気持ち悪さの正体なのかもしれません。

 

そんな内面的にひきこもりに近い僕からいわせてもらえれば、この種の人たちは自己肯定感を維持するのが極めて苦手ということ。社会活動をしていないせいで人生の充実感が乏しいばかりか、若いときから2ch(現在の5ch)などで人を誹謗中傷する言葉に触れていることも多いため、汚い言葉で自分や他人をを押さえつける癖がついてしまっているんです。

「勘ちがいするな、お前なんか死んでも誰も困らない」

「人から必要とされていない人間、市場価値のない人間の存在はコストの無駄」

こんな考えが骨髄まで浸透しているような感じですね。

 

こういう言葉は、一見すると正しく見えてしまうんです。

露悪的な分、世の中の真理を突いているようで、何となく抵抗しづらい強さを持っている。たしかに僕だって「社会から見れば」明らかに必要ない人間ですしね。

 

この種の言葉の「強さ」に魅せられた人間は、他人に対して同種の言葉を投げつけることで、辛うじて自分を維持しようとします。僕自身にも経験があるんですが、毒舌というのは理想を語るよりも簡単に「現実的」な自分を演じることができます。世間では毒舌とよばれる世間通な著名人がいますが、あたかも自分がそんな人間になったかのような高揚感をもたらす便利ツールなんです。

 

本当の意味で強い人間が、そういう露悪的な言葉を使う分には(まだ)いいでしょう。

しかし弱い人間がこういう言葉を弄ぶと危険です。僕も経験していることですが、ネガティブな感情がブーメランとして自分にも向けられ、徐々に心が蝕まれていくんです。

 

そうならないためにも、上記のようなネガティブな方法を使わずに自己肯定感を高める必要があるんですが、これが極めて難しい。自分が世間から必要とされると思えるだけの評価を得るのが分かりやすい解決策ですが、そうそうできることではないです。

となると、自己肯定感は自分自身で作り出すしかないです。ある意味の「ポジティブな勘ちがい」をしていかなかったら、必要とされていない人間は生きていけない。

 

そんなポジティブな勘ちがいをするために僕自身が最近心がけていることは、できるだけ「きれいごと」を大切にすることです。

・人(場合によっては自分)のいいところを見つけて称賛する

・(自分を含めた)人の悪口を減らす

・いい話を意識的に見聞きする

などなど、子供のころ当たり前に教わっていたこと。

はじめはつらいですよ。とくに僕みたいにネガティブで露悪的な言葉を弄んでいた人間にとっては、「きれいごと」に接することになれていなくて、その無力さ頼りなさが嫌になることもあります。

 

しかし意識的に「きれいごと」に触れていくうちに、自分を傷つける気持ちが少しずつ減っていくような気もします。よく「心は言葉から作られる」といいますが、その意味が少しだけわかりますね。

こんなふうに、他から存在意義を認められなくても、少なくとも自分で自分を貶めることをやめていくことで、辛うじて自己肯定感を維持しているわけです。

 

巷では、この考えのヒントになる著作物が沢山出回っていますが、今回は安全地帯「清く正しく美しく」という曲を紹介しておきます。


清く正しく美しく /安全地帯

 

この世にあるものはいいものばかりに決まっている

 

なかなか言えないセリフですね。

一見甘ったるい理想論を歌っているように聞こえますが、僕の解釈によれば、この作品は厳しいことをいってます。

 

誰もわかっちゃくれないし誰も助けてくれない

でも誰かが「みて」くれている

それだけでもいいじゃないか

だって「誰も悪くないんだから」(人のせいにするな)

穢れた者でも「清く正しく美しく」あろうとすれば、いつか知らないどこかの誰かが涙を拭ってくれるはず

 

こんなメッセージ性のある歌。

この歌を聴いていると、必要とされていない人間でも「不必要な自分」に抵抗していこうかなという気になれるんです。

 

こんな考えで自分を維持できる自分は、まだ甘ちゃんなのかもしれません。

しかしもう少しだけこのひ弱で頼りない「きれいごと」を育ててみたい。そうして生まれる自己肯定感の可能性をもう少し信じてみたい。

 

そのためにはやはりきれいな言葉が必要なんです。

僕も国語に関する記事なんて書いていますが、そんな言葉が増えるための一助になることを目指していきたいですね。

 

 それでは、また。