こくごな生活

国語講師だったひとのつぶやき集

人に力を与えるのはただ「前向き」な言葉だけではない~玉置浩二「メロディー」礼賛記~

こんにちは。

 

大型連休中ではありますが、平常勤務が続いております。

この日も仕事帰りの夜10時頃、草臥れて高田馬場の路地裏を歩いていると、30代くらいの男性がたった一人で(比較的大きな声で)鼻歌を歌っていました。

 

酔っているのか?と思ったが、そうでもない。

ちょっと怪しい人かな・・なんて思って、少し間を開けて通り過ぎようとしたそのとき、鼻歌の歌詞の一部を聞き取り、僕は歩を緩めました。

 

あの頃は~何もなくて~♪

 

「わかってる」

あれだけ心の中で変質者扱いしていたその男性が、急に旧来からの「心の友」にみえた瞬間でした。

そう、音楽とはそういう力があるのです。「あの」感動を共有した、と思えるだけで、その人との距離がぐっと近くなる。

 

特に玉置浩二(敬称略、以下同じ)の作品は、サザンやミスチルなどと違い、共感してくれる人の数が日本では(その実力の割に)少ない。そんなことを日頃から歯がゆく思っているものにとっては、「同士」の発見は、飛び上がらんばかりの喜びなのです。

 

僕はすぐさまアコギを手に取ってその男とともにカラオケ店へ・・という衝動にとりつかれましたが、そんなことをしたら間違いなく僕の方が変質者です。まだ僕は正常な人間のつもりですので、辛うじて踏みとどまりました。

 

しかしこの出来事で、改めてこの作品のことを思いだしましたよ。

 

メロディー

メロディー

 

「メロディー」 玉置浩二

 

1996年の作品です。まだ往年のヒット作「田園」が発表される少し前、残念ながら世間では玉置の存在感が少し薄かったといえる時代の曲ですね。

僕が子供のころ、筑紫哲也のNEWS23のエンディングテーマとしてこの曲が流れていたのを、何となく聞き流していたのを覚えています。当時は「あの頃」なんてものはなかった。だからこの歌にはそれほど共感してませんでした。

いや、ノスタルジックな感じの歌は子供のころから好きだったんですけど、当時の自分は意図的にこの歌をあまり聴きませんでした。「子供のうちからこういう懐古的な歌を好きになりすぎてはいけない」という自戒みたいなものがあったかもしれません。

 

でも、あれから20数年がたちました。

大人になった僕は、思い出カプセルを開くかのように、当時「封印していた」この曲を聴き始めるようになったのです。

 

この曲は、サラリと聞き流すと平凡な曲に聞こえるかもしれません。

しかし心の中に「あの頃」を持つようになった者ならば、そして玉置の表現力の魅力を少しでも理解できるようになった者ならば、この曲を涙なしには聴けません。10代のころの失恋のような涙とは違いますね。歌詞にあるように「優しくて少し寂しい」涙です。これがノスタルジーというものなんでしょうか。

 

 過去を振り返るというのは、往々にして「後ろ向き」なイメージを伴います。

 

SNSを眺めていると、現代の人々は「意味のある生産的な言葉」を探し、それを滋養強壮剤のように自らに注ぎ込んで自分を成長させることに必死です。

 

でも、ときにそんな前向きな言葉が、自分を置いてけぼりにしていくようで、とてもつらく感じるときがある。

そんなとき、自分の中にある優しかった過去を振り返り、自分は幸せだったんだと再確認することもまた必要な気がします。このメロディ―という曲を聴くと、そんな気分になるんです。

抽象的な表現かもしれませんが、「いまとなっては『あの頃』は失ってしまったけれど、今が素敵な『あの頃』になれるように、もう一度前を向いてみよう」と、言われてるような感じでしょうか。その意味で、この曲はノスタルジーではあるけれど、決して暗くも消極的でもない作品だと思っています。

 

メロディーは、玉置自身が作詞したものです。

彼の歌詞全般にいえることですが、この曲の歌詞も愚直なまでに素直。あるいは、日常生活を具体的・技巧的に表現した作品を良としている者にとっては、つまらなく感じるかもしれません。

しかし、このような素直な言葉だからこそ、聞き手は様々な想いを歌に投影できます。玉置の詞は聞き手に具体的すぎる世界を押し付けないのです。この気持ちのいい隙間を感じる世界観が僕が玉置の作品を好んで聞く理由の一つなんですが、このメロディ―も例外ではありません。

 

たっぷりした言葉と彼の歌声に自分の過去を投影させ、ささやかな自己肯定感と優しさが蘇る。メロディーという曲には、そんな効用があるんです。

こういうノスタルジーなら素敵だな、としみじみ思いますね。

 

以上、僕の好きな曲「メロディー」の雑感でした。

それでは、また。