こくごな生活

国語講師だったひとのつぶやき集

自己中心的利他な生き方を完成させた玉置浩二~志田歩「玉置浩二☆幸せになるために生まれてきたんだから」の読後~

こんにちは。

 

今回は、私の好きなアーティスト玉置浩二(敬称略、以下同じ)についてです。

 

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高い歌唱力と作曲能力から、数々のアーティストから「天才」と慕われており、いまや西本智実とともにオーケストラ編成のコンサートを行うなど、まさに日本を代表する歌手となっています。

反面、数々の女性遍歴やコンサートのドタキャンなど、マスコミを騒がせる一面もありました。人によってはそんな癖のあるわがままな人間性が苦手な人もいるかもしれません。

 

そんな玉置浩二を僕は20年以上見てきました。その僕からいわせると、たしかに(誤解を恐れずに言うと)彼は「わがまま」だと思います。

僕は学生時代、安全地帯・玉置浩二の作品に関するサイトを開設していたことがありました。その記事の多くは彼の作品を称賛する内容でしたが、たまに彼の「わがまま」な側面を批判したこともあります。実際、「客のために音楽なんてできない」と発言したり、ライブをドタキャンしたり、自分の都合でバンドをやったりやめたりと、ファンをやきもきさせる言動が多かったですからね。

 

しかし最近になって、彼の「わがまま」を批判するのは的外れなのではないかと思うようになってきました。これは僕自身が学生時代のころのような尖った批判欲がなくなったからというのもあるかもしれませんが、より大きな要因は「自己中心的利他」という概念を知るようになったことだと思ってます。

 

そこで今回は、玉置浩二の歌手活動を観察することで、自己中心的利他という言葉についてみていこうと思います。

 

1 自己中心的利他とは

これは最近になって生まれた造語です。

 厳密な意味の定義はありませんが、最大公約数的な意味は、自分のやりたいことをやりその結果として人が幸せになるような仕事や生き様をいいます。

この自己中心的利他という考え方を提唱している人は数多くいますが、書籍でいうとこんなものが有名ですね。

 

あのお店はなぜ消耗戦を抜け出せたのか

あのお店はなぜ消耗戦を抜け出せたのか

 

 

この本の内容をかいつまんでいうと、自分を犠牲にして他人を幸福にするのは長続きしないから、自分の思うままにやって結果的に相手の利益になるような生き方を模索すべきだということです。

 

2 「まともで優しい人」になりたかった玉置浩二

 玉置浩二という人は、僕の見る限り、かなり内省的な人です。もちろん自分の「わがまま」も自覚しているはずだし、それによって経験した軋轢も数多かったことでしょう。若いときはヒット曲を出すために驀進していた彼も、ソロになって落ち着いてくると、そんな自分と向き合っていくうちに、次第にナイーブになっていきました。

 

玉置は自分の弱さと向き合うと、あっけらかんとお道化たふりをするか、自省して妙に神妙になってしまうところがあります。問題に対してスマートな態度を取ることが苦手。不器用というんでしょうか。こういうところが人間臭くて、僕は妙に共感できるんですけどね。

 

軽井沢にいたときの彼は、そんな神妙だった時代だと思います。

軽井沢時代というと大体00年代の話ですね。2004年に放送された「夢・音楽館」に出演したころの映像は今でも印象に残っています。

 

・一日も早くまともな人間になりたい

・十分やらせていただいたので「自分がやりたいことがない。」

・「ちゃんとこれくらいで気が済む。」という慎ましさを持っていたい

 

あきらかに「わがまま」であった自分を意識しています。

「もうこれからは田舎で奥さんと2人きり倹しく暮らして、『まともでいい人』になろう。」

「いつまでもスキャンダラスで癖のあるキャラではいけない」

という玉置の決意表明がひしひしと感じられます。

 

当時これを見た僕は、「随分落ち着いたな」と思う反面、「なんかパワーが抜けちゃったな」と思っていました。実際このころの玉置の歌唱は、今のようなフェイクやシャウトが少なく癖はないのですが、彼の持ち味も少し薄まってしまった感があったんです。

僕は物足らなく感じました。彼のわがままを批判していた僕がです。我ながらなんと都合のいい人間なんでしょう。わがままだったのはむしろ僕の方だったのです。他人を偶像化して、玩具にして、多くを求め過ぎたのだ、と今となっては反省しています。

 

ちょっと話がそれましたが、このころの玉置は自分の「自己中心的」な側面を薄めようとしていた時期です。それによって「利他」に近づくと思っていたんですね。

 

3 自分のためでもあるけど他人のためでもある

もっとも軽井沢時代の玉置が、単純に「自分を犠牲にして人のために働く」と思っていたわけではありません。

 

軽井沢時代の生活をはじめて数年(およそ6年くらい?)がたったころ、彼は、「ファンのために音楽をやっているのではない」という自分の過去の発言に対してこのようにいっています。

「やっぱりファンの人達のために歌っているっていうのはあるね。」

「自分のために歌っているというのがファンのためになっているというか・・言ってることは同じなんだけど。」

 

この発言には、自己中心的利他の考えがうかがえますね。

そもそも玉置は「自分が人のために何かをしてやっている」という感覚を嫌います。これは僕もわかる。つまり、この考えを持つと無意識的に相手から見返りを求めてしまうんですよ。そんな押しつけがましい仕事をされたら相手は負担ですものね。その意味では、学生時代にわがままと感じた「ファンのために音楽をやっていない」という発言も、実は真摯な仕事の姿勢の表れととれなくもないわけです。

そしてそんな真摯な彼の作品に触れてファンは喜びを得る。その感覚に気づき始めた彼は、自己中心的利他の考えを少しずつ体得し始めたといっていいでしょう。

 

つまり軽井沢時代の玉置は、自分の自己中心的なアクを消しつつも、自分のための活動が周りのしあわせにつながることを目指す、というすごく難しいことをやろうとしていた時期なんです。

 

4 いい人からの脱却

いくら天才玉置といえども、そんな難しいことをすることに無理を感じたのかもしれません。やはり自分を薄めると、他人をしあわせにするだけの求心力を維持するのは困難です。

 

軽井沢生活をやめ、今の妻である青田典子と結婚すると、次第に玉置のキャラは奔放なものへ変わっていきました。歌い方もフェイクを交えたオリジナリティのあるものに変化します。彼は「慎ましくいい人」という路線を捨て、ふっきれたわけです。

その後の彼は、いい意味で「自己中心的」であることに専念できています。年齢もあるのでしょうが、以前のように不安定な言動をすることも減ったように思います。

これは自分のための活動と、誰かのしあわせがリンクしていることを本人が真に納得できたからかもしれません。長い年月をかけて、彼は本当の自己中心的利他の境地にたどり着き、そこから今の安定感を得たのです。

 

4 彼みたいに生きるのは難しいけれど・・

以上、玉置浩二を通じて自己中心的利他という概念を考察してみました。

スマートで優秀な人間がこの概念を説くより、玉置のようにちょっと不器用な生き方をしている人を通してみた方が、自己中心的利他の魅力と難しさがよくわかると思ったのでこんな記事を書いてみた次第です。

 

むろんこんな生き方を軽はずみでマネできるものではありません。

人をしあわせにする術を持たない人間が、自己中心的になったらそれこそ有害なわがままですからね。自己中心的利他をまっとうするには、周りとの軋轢を乗り越えて地道に自己研鑽をつんでいくしかない。玉置ですら60年かけてその境地になったんですから、滅多なことで達成できるものではないですね。それができない凡人は、やっぱり自分を消すことを厭わず、他人と無難に調整する生き方を選択することになるんでしょう。

 

僕は、意識高い系の若者と違い、凡人の無難な生き方もそれなりに大変で愛おしいものだと思っています。しかし自己中心的利他という考えを理解しておけば、「世間」とか「常識」という言葉で、他人を排斥することを戒めることができるので、やはり有益な概念だと思います。

 

ちなみに、この記事を書いたきっかけは、以下の本を読んだからです。

 

 いつもなら書評で済ませるところですが、僕自身が玉置ファンのせいか、つい手前勝手な雑文になってしまいました。ご容赦ください。

 

それでは、また。