こくごな生活

国語講師だったひとのつぶやき集

小説の読解問題に「正解」があるのはおかしい?

こんにちは。

 

今回は小説の読解問題についてです。

 

読解問題の解説をしているとタイトルのようなことを質問されることがあります。

つまり「国語の文章は、読み手によってどのようにも受け取ることができる。だから『もっとも適切な選択肢』を選ばせようとするなんて、おかしいんじゃないか?」とい疑問に思う人がときどきいるということですね。

 

以下、その疑問について僕なりの考えを述べておきます。

f:id:bigwestern:20181226111753j:plain

 

1 確かに小説の受け取り方は人それぞれ

確かに国語の世界に正解はないという気持ちは分からなくもないです。

特に小説のような文学作品の場合には、読み手の受け取り方が十人十色であることが珍しくありません。

 

例えば、武者小路実篤の「友情」。

 

友情 (岩波文庫)

友情 (岩波文庫)

 

 

主人公は思いを寄せていた女性とは一緒になれずに、しかも皮肉なことに主人公の親友に彼女を奪われてしまいます。

 

この作品をはじめて読んだ僕(当時18歳くらいでした)は、内向的で不器用な主人公の姿を自分に重ね合わせ、えらく主人公に同情しました。そして恋愛の難しさや人間関係の儚さを感じ取ったものです。

 

しかし今この作品を読みかえしてみると、主人公がだいぶ独りよがりで弱い人間に見えてきます。そして「なるほど、これじゃ彼女も主人公ではなく友人の方を選ぶなぁ」と、なかば主人公を突き放したような感情を持つようになってきたんです。

 

このように文学作品は、1人の人間が読んでも受け取り方が全然違うわけです。

別の人間が読んだら尚更でしょう。

 

2 解釈と感想の違い

では、そんな受け取り方がバラバラになりうる小説について「正解」を提示するのは間違っているのでしょうか。

 

結論からいうと、そんなことはないと思います。

小説にはより適した解釈という意味での「正解」は確かに存在します。もしこれを否定するなら作問をしている僕の業務の意義が全否定されてしまいますので、自己弁護(?)を兼ねて理由を述べます。

 

まず、小説などの文学作品について、僕はこのように考えています。

「解釈には正解を作れるが、感想には正解はつくれない」

感想には正解がないというのは、読書感想文に正解がないというのと同じですね。例えば、試験に「この文章について貴方の感想を述べなさい」という問題を出題をして、その感想について◯✖をつけるなんて、まずありえません。そんな悪質な思想統制をする問題を出したら関係者から総スカンを食らいます。

 

一方、解釈の分野なら国語の読解問題で正解を作ることは可能です。

なぜなら、解釈による結論は、本文の記述を根拠にして論理的・技術的に導かれるんです。これは前述の思想レベルの感想とは区別できます。

 

例として前述の「友情」の例を挙げましょう。

主人公は、想っていた彼女が親友と一緒になったことを知ると、親友からプレゼントされたマスクを叩き壊すシーンがあります。この叩き壊すという行為をどう解釈するかは、本文の記述からある程度確定可能です。例えばその親友に対する怒りであったり、彼女を奪われた混乱であったりという感情は、本文の記述から根拠づけて導くことが可能なわけです。

 

これを例えば「いやいや、単にマスクが邪魔だったから仕事のストレス発散を兼ねて叩き割っただけかもしれないじゃないか」というのは、いくら人の考えが十人十色だからといっても認めるわけにはいきません。少なくともそれが「もっとも適切な選択肢」になることはない。

 

なぜ解釈の分野で正解を確定する訓練が必要なのかというと、国語がコミュニケーションの道具だからです。一つの表現から解釈される内容がバラバラだと、そもそも意思疎通が図れません。例えば「長年連れ添っていたペットをなくした老人が、公園で一人佇んでいる」という文から、「この人、楽しそう!」なんて解釈をする人とはコミュニケーションが取れそうもないですよね。

 

それに対して、感想とは、その解釈をもとに考えた自分の思考過程なり結論のことです。これは思想の分野ですので正解を確定することはできません。

 

例えば、「友情」の例でいうと、混乱や怒りでマスクを叩き割った主人公に対して、

「ものにあたるなんて怪しからん!」

「オレも同じ立場ならこうなっちゃうかもしれないな・・」

などなど、さまざまな感想があっていいわけです。でもそれはこのマスクを叩き割った主人公の行為を正しく解釈できていることが前提なんです。正しい解釈ができていれば、たとえ感想が違っても、噛みあった話し合いができますからね。

 

3 だから読解問題は無駄ではないと信じたい

このように一口に読解といっても、正解が作れるところと作れないところがあります。

むやみに正解を作るのは石頭の思想統制ですが、勝手気ままな感想を持つだけでは国語の技術的な力を付ける機会を逃してしまいます。

 

ぼくはそんなことを考えて、読解問題を作る作業は決して無駄なことではないと自分に言い聞かせているのです(笑)

 

それでは、また。