こくごな生活

国語講師だったひとのつぶやき集

ブログに政治思想ネタを乗せづらい件~ミギ・ヒダリの殴り合いに巻き込まれたくない~

こんにちは。

 

先日、森達也氏の本について感想を述べた記事をアップしました。

 

bigwestern.hatenablog.com

 

すると、なんと森達也氏本人がこの記事をRTしてくださった模様。

f:id:bigwestern:20190129111836j:plain

 

ご本人が注目してくださったというのは、表現者の一人として光栄に思います。

本当にブログ記事というのはどこで注目されるかわからないな、と思いますね。

 

とはいえ、今回の件でちょっと「怖い」と感じた面もあります。

このRTの影響で、割と多くの人から「いいね」などを頂きました。その中には、記事の内容のせいか、どちらかというと反権力的な考え方の方々もいらっしゃいます。

 

もちろんブログを書く人間としてこのような反響があるのは嬉しいことなんですが、ここでふと思いました。

f:id:bigwestern:20181222122234p:plain

「あれ?オレ『こっち側の』人間なのか?」

 

共感してくれるのは嬉しいと思いつつも、何となく自分が「ミギorヒダリ」というレッテルを張られて、お互いが殴り合いをしている土俵に自分が連れていかれるような錯覚を覚えたのです。

 

僕は、様々な問題についてできるだけ虚心に考えていきたいと思っています。

こうしてブログなんかで、その時々の感想を述べたりしてますが、またしばらくたったら違う感想を持つかもしれない。人間の思考は、そうやっていったりきたりしながら前に進んでいくものだと思ってますので、考えが変わること自体は悪いことだと思いません。政治家の公約じゃないんですからね。

 

しかし、例えば今回のように死刑についてSNS上で悩みをみせると、共感者の性格によりミギかヒダリのカテゴライズをされ、自分の思考がいったん「固定化」されてしまう。少なくともそのように「見えて」しまう。

政治的な信念を持っている人はそれでもかまわないのかもしれないけれど、これを「怖い」と感じる人も少なくないんじゃないでしょうか。

 

自分はSNS上のミギ・ヒダリの殴り合いに巻き込まれたくない。

だから、政治的な悩みを言語化することをためらってしまう。

 

 本来、こうなるのは間違っているはずです。

職場の人間関係や育児について触れたブログ記事のように、死刑問題や憲法問題だってもっと気軽に疑問やその時々の考えを言語化できていい。

しかし、問題が大きいせいか、多くの人はこういうことを語ることをためらってしまう。それは上記のような事態になることに「怖さ」を感じていることが一因なのでは、と思っています。

 

 

そもそも僕は、ミギ・ヒダリなんて言葉は、あまり好きではありません。

記事の上では表現の便宜上、この言葉を使っていますけど、こうやって二極化して人の思考を振り分ける癖がつくと、その人の考えを細かく観察することを怠り、「共感」できる機会を失ってしまいます。

 

しかし、SNSは上記のようなカテゴライズが起こり得るから、ミギ・ヒダリの二極化が起こりやすい。単発的なコメントが飛び交うTwitterなどでは特に危ない。

実際、インターネットが普及する前は、ここまでミギだのヒダリだのといわなかった気がするんですけどね。気のせいだろうか。

 

人間の考えは、そんな二極化ができるほど単純じゃないはず。

僕は、本来、そういう微妙なところをネチネチ考えるが好きなんだけど、上記のようなSNS上の議論の性質をみていると、そんな自分をネット上で表現するのは難しそうだな、と思ってしまいますね。

 

以上、何のオチもないただのボヤキでしたが、ここまでお付き合いくださってありがとうございました。

 

それでは、また。